○ぶどうの枝第62号(2025年6月29日発行)に掲載(執筆者:HA)
五月十一日に受洗式を終え皆様のお仲間入りをさせていただくことになりました。ほやほやの一年生です。
これから先、信仰の道において多くのことを学んでいかなければなりません。どうぞご指導よろしくお願いいたします。
クリスチャンだった妻、美智子との出会いから六十年余りの長い間、私は求道者として教会に足を運んでいました。しかし、実態は彼女についていくという程度の思いでしたから「入信」への積極的な気持ちは薄く、なんとなくこのままで過ぎていくのだろうと漠然と考えていました。
二人が八十歳を前にした頃、私の「受洗」を望んでいた彼女が、時々「お父さん、もうそろそろどう?」と言うようになりました。私は「そうだねえ、そのうちにね」と、その度に曖昧に答えていました。ただ、いずれはという気持ちはあったのです。
そのときは二人共元気で、まだまだ先があると考えていましたから、彼女が突然のように、旅立っていくとは思いもしませんでした。
二年ほど前、妻ががんに侵され、やがて入院生活を余儀なくされるようになりました。折しもコロナウイルスの影響による面会制限があって一日にわずか十五分しか会って話をすることができませんでした。私たちにはつらい日々でした。
病状が悪化するにつれて四人部屋では対応が困難との病院側の意見もあり、個室に移ることになりました。そして、私も一緒に宿泊することになりました。
二十四時間彼女の世話をし、三度の食事を共にし、毎夕食の後は並んだベッドから手を差し伸べ握り合い、声を合わせて讃美歌の「いつくしみ深い」を歌って過ごしました。
私たち夫婦にとって大切な、そして最も充実した時間でした。しかし、それはわずか五日間で終わってしまいました。妻は六日目の夜を越せなかったのです。長くつらいベッド生活の中で、彼女が〝神様にどのような祈りを奉げ、どのようなお願い〟をしたのか知るすべはありません。それ以来、私は妻が一生を通し守り続けた信仰について考えるようになりました。同時に私自身の信仰についても考えるようになりました。しかし、依然として「入信すること」をちゅうちょする気持ちは変わりませんでした。
ある日曜礼拝の朝、親しくさせていただいているAさんとお話する機会があり心境をお話しました。Aさんは「百パーセント神を信じてから入信する人なんていませんよ。入ってからの信仰が大事なんですよ」と、また「奥様の思いにお応えなさったら」などと自らの経験も含め丁寧にお話してくださいました。
娘たちも「いいと思うよ」と賛成してくれたこともあり、やっと気持ちの整理ができました。もちろん、亡き妻が背中を押してくれたのは言うまでもありません。
その翌週、金先生に「入信の意志」をご報告し、ご無理を言って妻の一周忌の翌日のこの日に「受洗式」を行っていただけるようお願いしました。
二人の娘が見届けてくれた「受洗式」、そしてこの日は私が長い年月を経てやっと妻が望んだ「クリスチャン」になった記念すべき特別な日になりました。
