○金 南錫牧師 フィリピの信徒への手紙3章1ー9a節
パウロはユダヤ人として正しい生き方を求めて、一生懸命努力してきました。「わたしは生まれて八日目に割礼を受け、イスラエルの民に属し、ベニヤミン族の出身で、ヘブライ人の中のヘブライ人です。律法に関してはファリサイ派の一員、熱心さの点では教会の迫害者、律法の義については非のうちどころのない者でした」(5-6節)。
ところが、パウロはキリストに出会って、その生き方は全く変えられました。「しかし、わたしにとって有利であったこれらのことを、キリストのゆえに損失と見なすようになったのです」(7節)。パウロにとって、それまで「有利であった」価値あるものが、キリストに出会ったことによって、「損失」価値のないものと思うようになったと言うのです。つまり、自分が今まで一生懸命、努力して築いてきたこと、それ以上にパウロにとって、価値のあるものを見つけたのです。パウロはこう語っています。「キリストのゆえに、わたしはすべてを失いましたが、それらを塵あくたと見なしています。」それまで大事にしてきたことを「塵あくた」とまで言っています。そう言わしめるほどに、キリストとの出会いが素晴らしかったということです。