○金 南錫牧師 創世記34章1-31節
ヤコブの一族は、バダン・アラムから無事にカナン地方にあるシケムの町に着き、そこにしばらくの間、定住することになります。しかしここでヤコブの娘ディナに不幸な事件が起こります。ハモルの息子シケムが「彼女を見かけて捕まえ、共に寝て辱めた」のです(2節)。彼は彼女に心を奪われ、愛するようになります(3節)。そして、父ハモルに「どうか、この娘と結婚させてください」と願うのです(4節)。そこで、父ハモルは、ヤコブに息子のシケムがヤコブの娘ディナを恋い慕っていることを理由に、ディナを息子の嫁にほしいと願い出ます。さらに、「お互いに姻戚関係を結び、…私どもと一緒に住んでください」とまで言うのです(9、10節)。しかし、ヤコブの息子たちは、ディナを嫁として与えるつもりはありませんでした。なぜなら、シケムがディナを汚したからです。そして、シケムとその父ハモルをだまして、割礼を受けることを条件として求めます。
ハモルとその息子シケムは、この条件なら受け入れてもよいと思いました。とはいえ、彼らはイスラエルの神を信じる信仰から、割礼を受けることではなかったのです。ただヤコブの家族と姻戚関係を結ぶことで、メリットがあると考えたからでした。そして町に帰り、すべての男子が割礼を受けることを提案しました。すると、男たちはすべて、割礼を受けることに同意しました。三日目になって、男たちが傷の痛みに苦しんでいたとき、ディナと同じ母を持つ兄のシメオンとレビは、剣を取って難なく町に入り、男たちをことごとく殺しました。また、ハモルと息子シケムも剣をかけて殺し、シケムの家からディナを連れ出したのです(26節)。ヤコブは息子たちがしたことによって、自分たちが危機的な状況に置かれたことを嘆くのです(30節)。それに対して、シメオンとレビは「わたしたちの妹が娼婦のように扱われてもかまわないのですか」と言い返したのです(31節)。
本日の聖書箇所において、シケムの行為は姦淫の罪に当たり、確かに放置できません。しかし、選民イスラエル人が復讐心に燃えてだまし討ちするために割礼を利用しようとしたことは、許されるものではないのです。ですから、ある意味において、ディナを辱めたことによって悪者に見えたシケムよりも、これを罠にはめたディナの兄たちの方がより悪く見えたと言えます。それなのに、神様の赦しの福音を担っていくのは、この惨めなことを行なったディナの兄たち、シメオン、レビたちであることに変更はないのです。だまし続けるヤコブ一族のような者たちを、神様は憐れみをもって、赦し、神の祝福を担っていくように、導いてくださるのです。その神様は私たちをも赦し、くすしき恵みをもって、守り導いてくださるのです。