○金 南錫牧師 創世記19章1-38節
ソドムの門の所に座っていたロトが、二人の御使いを見ると、急いで迎え入れようとします。ところが、二人の御使いははじめこれを辞退します。しかしロトは、ソドムの町の危険なことをよく分かっていました。ですから、何とか家に引き入れて、その上でもてなしたかったのです。ところが、ロトのところに来客があったことを聞きつけ、ソドムの男たちがやってきます。4節に「若者も年寄りもこぞって押しかけ、家を取り囲んで、わめきたてた」とあります。彼らはロトに向かって言いました。「今夜、お前のところへ来た連中はどこにいる。ここへ連れて来い。なぶりものにしてやるから」(5節)。ここで「なぶりものにする」とは、性的な意味で、男の同性愛のことを指しています。
ロトは、戸口の前にたむろしていた男たちのところに出て行き、「どうか、皆さん、乱暴なことはしないでください。実は、わたしにはまだ嫁がせていない娘が二人おります。皆さんにその娘たちを差し出しますから、好きなようにしてください。ただ、あの方々には何もしないでください」と言いました(7、8節)。
しかし、ソドムの男たちは「そこをどけ。こいつは、よそ者のくせに、指図などして。さあ、彼らより先に、お前を痛い目に遭わせてやる。そして、ロトに詰め寄って体を押しつけ、戸を破ろうとした」のです(9節)。そのときに、二人の客は、手を伸ばして、ロトを家の中に引き入れて戸を閉め、戸口の前にいる男たちに、目つぶしを食わせ、戸口を分からなくしました(10、11節)。このことを通して、二人の客がただの人ではなく、主なる神の御使いであることが示されます。
二人の御使いは、ロトにソドムの町が主によって滅ぼされることを告げます。同時に、その滅びから逃げるようにすすめました。ロトは娘たちの婿のところへ行き、「さあ早く、ここから逃げるのだ。主がこの町を滅ぼされるからだ」と促しましたが、婿たちは「冗談」だと思って、逃げないのです(14節)。このように、私たちもこの世界の終末や神の裁きについて、なかなか本気になることができないでいるのではないでしょうか。
いよいよソドムの地に神の審判がくだりました。夜が明けるころ、御使いたちはロトに「さあ早く、あなたの妻とここにいる二人の娘を連れて行きなさい。さもないと、この町に下る罰の巻き添えになって滅ぼされてしまう」と強く警告します(15節)。しかし「ロトはためらっていた」とあります。では、ためらっていた中途半端な信仰の者を、神様は何故、救おうとされるのでしょうか。その理由の一つは主の憐れみなのです。16節に「ロトはためらっていた。主は憐れんで、二人の客にロト、妻、二人の娘の手をとらせて町の外へ避難するようにされた」とあります。ロトの救いは、彼が強い信仰を持っていたからではなく「主は憐れんで」と書いてあるように、ただ主の憐れみによって与えられたのです。私たちの救いも同じではないでしょうか。ただ神様の憐れみによって救いの道が示され、神様に手を引かれてその道を歩み出し、神の裁きから救い出されるのです。