2021年2月21日「男と女」

○金 南錫牧師 創世記2章18-25節

 今日の聖書箇所のはじめに、神様は「人が独りでいるのは良くない」と言われました。この「良くない」という言葉は、人間本来のあり方ではないことを言います。それで、神様は「彼に合う助ける者を造ろう」と言われました。岩波訳では「彼と向き合うような助け手を造ってあげよう」と訳されています。つまり、神様はアダムが独りでいるのは、良くないと思って、彼と向き合うような助け手、パートナーを造って与えようとしました。

 しかし、人間として自分に合う本当の相手を見出していくことは、そんなに容易なことではありません。そこには、旅のような歩みがあります。「主なる神は、野のあらゆる獣、空のあらゆる鳥を土で形づくり、人のところへ持って来て、人がそれぞれをどう呼ぶか見ておられた。人が呼ぶと、それはすべて、生き物の名となった」(19節)。神様は鳥や獣を造られました。しかし鳥や獣では、人間に合うパートナーとしては不十分でした。人間の相手は人間でなければならないのです。ここで「人がそれぞれをどう呼ぶか見ておられた」という表現は、人がそれらのものをどのように理解し受け止め、どのような関係を持つのかを描き、伝えています。つまり、「呼ぶ」とか「名をつける」ことは、そのものの本質を見抜いて、自分の生活の中に取り込んでいくことです。アダムは一つ一つ動物の特徴を見て、名前をつけましたが、自分と交わりを持つことができる存在を見つけることができませんでした。20節に「人はあらゆる家畜、空の鳥、野のあらゆる獣に名を付けたが、自分に合う助ける者は見つけることができなかった」とある通りです。

 そこで、神様はアダムに合う助ける者として、女をお造りになりました。まず神様はアダムを深い眠りに落とされます。そして、アダムからあばら骨の一部を抜き取って、そのあばら骨で「女」を造られました。アダムは目を覚まし、彼女に出会って「これこそ、わたしの骨の骨、わたしの肉の肉」と歓声を上げたのです。それはアダムが彼女を妻とし、二人が信頼し合い、一つの体として生きる決意の表明でもあったのです。

 「こういうわけで、男は父母を離れて女と結ばれ、二人は一体となる。人と妻は二人とも裸であったが、恥ずかしがりはしなかった」(24節、25節)。今日の聖書箇所は、結婚式の式辞によく読まれるところでもあります。結婚とは「自分の世界」の象徴である「父母」を離れ、「私」という単独の世界を出て、自分を支える存在である「あばら骨」と出会って、「私たち」という新しい自分になっていくことです。神様が私たちを「男と女」として造られたことは、お互いを必要としながら、他者と共に生きる存在として造られたことを意味します。私たちが、お互いを必要とする存在として造られたことに感謝して、人との交わりの中で、それぞれに祝福された道を共に進もうではありませんか。