○金 南錫牧師 創世記2章4-17節
本日の聖書箇所から、人間の創造について新しい記事が始まります。創世記1章27節において、神様はすでに人間を創造されました。ところが、2章7節に、土の塵で造られた人間のことが改めて記されています。ですから、聖書学者たちは、この創世記がいくつかの時代の複数の著者によって、書かれたと言っています。
聖書は確かに、神様が自分たちにどのように関わってくださったか、その言葉を、時代を超えて多くの人が受け継ぎ、纏められたものです。そこには長い年月と多くの時代背景があります。創世記が書かれた時代は、イスラエルの民が国の崩壊、バビロンへの捕囚、そして、捕囚からの解放を経験した後の時代です。つまり、この創世記の言葉を受け継ぎ、私たちの手元にあるような形にまとめていった人たちは、それぞれに人間の弱さ、罪を抱えていたと思いますが、その罪の結果として国の崩壊と捕囚を経験しているのです。その上で、自分たちは何者であるのかを問い、アイデンティティを再確認していったのです。
その営みの中、彼らは、人間は一体どういう存在であるか、生きるとは何か、という問いとその答えである聖書の言葉を受けていったのです。そこでは、イスラエルの民の創造を示すのではなく、人間の創造を示しています。つまり、イスラエルの民に限定されるものではなく、すべての人は主なる神によって創造され、その存在の意味を与えられていることを語るのです。ですから、私たちと無関係ではないのです。すべての人に、この聖書の言葉は語りかけているのです。
2章7節に「主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった」とあります。もし、皆さんは、人間とはどういう存在ですかと聞かれた時、どう答えるのでしょうか。聖書は、人間とは土の塵からできている存在であると語っています。どんな人も、葬儀をして火葬場に持っていくと、人の体は灰になります。灰になった人の骨を見ると「人間は本当に塵でできているんだな」と思います。ですから、私たちは死を意識して、どう生きるか、自分の生き方を考え続ける者なのです。
神様は、土の塵に過ぎない私たちの体に、命の息を吹き入れられました。すべての人間は自分の力で生きているように見えますが、実は神によって生かされている存在です。ほかの動物や生き物も神によって、生きるものとされましたが、そこには「息」を吹き入れるような表現はありません。神様は人間にだけ命の息を吹き入れてくださったのです。それは、人間は神の息を受けて、生きる存在であることを示しています。神と共に生きる喜びの中で残された人生の歩みを進めて行こうではありませんか。