○金 南錫牧師 創世記23章1-20節
75歳の時、アブラハムはカナン地方に向けて旅立つことを神様から命じられました。その時、妻サラは親族知人と別れて、夫アブラハムと共に行く先も知らずに、旅立ちました。そこにはいろいろな失敗もありました。ところが、アブラハムの信仰の歩みのすべてをサラは共にして来たのです。そのサラが死にました。アブラハムは妻サラの死に対して「胸を打ち、嘆き悲しんだ」と記されています。アブラハムは、これまでのサラとの歩みを思い起こして、胸を打ち、大きな悲しみで嘆き悲しんだのです。
しかし、続いている3節の言葉に「アブラハムは遺体の傍らから立ち上がり」とあります。アブラハムは遺体の傍らにいつまでもいることはしなかったのです。むしろ、死んだサラを葬るために、立ち上がったのです。葬ることはただ土に返すことではなくて、復活の備えをすることです。人が死ぬと、お墓に葬りますが、そのお墓は復活までの仮の宿と言えます。ですから、アブラハムはやがて復活の確かな望みをもって丁寧に妻サラを葬ったのではないでしょうか。私たち信仰者は、復活の確かな望みをもって、天にある故郷を望み見て、この世を生きる旅人であります。