2020年5月17日「ぶどう園のたとえ話」

○金 南錫牧師 マルコによる福音書12章1-12節

 ある人がぶどう園を造り、農夫たちに貸して旅に出ます。収穫のときになり、収穫を受け取るために、僕を農夫たちのところへ送るのです。しかし、この農夫たちは、僕にぶどう園の実りを差し出すのではなく、僕を捕まえて袋だたきにし、何も持たせないで帰しました。
 次に他の僕を送りますが、農夫たちはその頭を殴り、侮辱しました。そして、更に、もう一人を送りますが、今度は殺しました。そのほかに多くの僕を送りますが、「ある者は殴られ、ある者は殺された」と言うのです(5節)。
 そして、ついに、この人は、自分の愛する一人息子を送るのです。しかし、農夫たちはこの息子も殺してしまうのです(8節)。
 このたとえ話の中、ぶどう園の主人は神です。そして、ぶどう園はイスラエルの民であり、ぶどう園の農夫たちはイスラエルの指導者、即ち祭司長、律法学者、長老たちとなります。
 この主人(神)は、自分が不在でも、自分の財産であるぶどう園を農夫に任せようと考えたのですから、農夫に対して絶対的な信頼を置いていたことが分かります。それも「ぶどう園を作り、垣を巡らし、搾り場を掘り、見張りのやぐらを立て」とありますように(1節)、農夫たちが安全に働ける場所と必要なものをすべて用意し旅立ったのです。
 しかも、その信頼は、僕が殺されたときでも激怒するということもなく、それを忍べるほどの信頼を抱き続けていたようです。そして、自分の愛する息子さえ主人は送ったのです。結果は前と同じでありました。
 ところがそんな彼らに向かってイエス様は、「家を建てる者の捨てた石、これが隅の親石となった」「わたしたちの目には不思議に見える」と言われ、十字架の意味を言われたのです(10-11節)。
 親石と呼ばれる石は、石を積み上げてアーチ状の門を建てるとき、一番上で左右が連結するわけですが、その接合部となる大事な石のことを言います。もしこの石が欠ければ、アーチは崩れてしまうのです。
 一方、家を建てる者とは、祭司長や律法学者と呼ばれるイスラエルの指導者たちのことを指しています。その彼らから、イエスという石は何の価値も見出せない石として、捨てられてしまったのです。
 人間は同じ石を見ても、ある人は価値を見出すかと思えば、別の人は何の価値も見出せないことがあります。確かにイエス様がこのたとえ話を語られた時点では、弟子たちも群衆の多くもイエス様を力ある方として、あるいは救い主としての大切な石と見なしていたに違いありません。
 しかし、やがて始まる十字架への道は、だれ一人としてイエス様を価値ある石と認めず、役立たずの石として捨て去り、死に追いやったのです。ところが、人間の目には必要のない石と見なされた石が、実は無くしてはならない親石となるといわれるのです。捨てられた石が親石になる。それこそが復活であります。
 私たちにありえないと思える、理解できないことが現実に起こって来るのです。イエス様は苦難に満ちた十字架の道を敢えて歩み、裏切る者、罪深い私たちを救いへと導かれるのです。そういうことは、「わたしたちの目には不思議に見える」そのものです(11節)。
 これがあのぶどう園の主人が、何度も諦めず僕を送り続けられた思いです。これは愛という言葉以外の何でもありません。
 ですから、このたとえ話をただイスラエルの罪の歴史だけではなく、自分に当てはめて読んで見たら、いかがでしょうか。自分の過去と、救われた今と重なってみるのです。
 最近、何人もの方から、電話やハガキ、メールを通して語られたことは、普段の礼拝生活のことが、どれほどありえない感謝のことであったかということです。
 今まで教会生活の中で、当たり前のことのように思った礼拝が、どれほどありえない恵みであったかを受け止めたいのです。そして、礼拝が再開するとき、その恵みの不思議さに、もう一度眼を向けて歩んでいけるよう祈っていきましょう。