2020年5月3日「すべての人の祈りの家」

○金 南錫牧師 マルコによる福音書11章12-26節

 受難を前にしてエルサレムに入城されたイエス様は、夕方になると町を出て、夜をベタニアで過ごされました(11節)。
 そして、翌朝再びエルサレムに向かうときのことです。空腹を覚えられたイエス様は、葉の茂ったいちじくの木に近寄って実をお探しになります。しかし、まだいちじくの季節ではなかったので、実はありませんでした。そこでイエス様は、「今から後いつまでも、お前から実を食べる者がないように」と言われたのです(14節)。
 20節に翌日の朝のことが語られています。イエス様一行は通りがかりに、そのいちじくの木が根元から枯れているのを見たのです。
 この出来事を見たペトロは昨日の朝の出来事を思い出して、イエス様に「先生、ご覧ください。あなたが呪われたいちじくの木が、枯れています」と言っています。ペトロはイエス様がいちじくの木を「呪った」と言っているのです。
 では、なぜイエス様はいちじくの木に向かって、呪いの言葉を言ったのでしょうか。そこには意味が込められていたからです。
 いちじくの木は、旧約聖書でイスラエルを象徴して用いら れています。例えば、ミカ書7章1、2節に「悲しいかな。わたしは夏の果物を集める者のように、ぶどうの残りを摘む者のようになった。もはや、食べられるぶどうの実はなく、わたしの好む初なりのいちじくもない。主の慈しみに生きる者はこの国から滅び、人々の中に正しい者はいなくなった。皆、ひそかに人の命をねらい、互いに網で捕らえようとする」とあります。いちじくのことが出ていて、預言者は腐敗したイスラエルを批判している箇所の一つです。
 イスラエルの中心であるエルサレムもまさにこのいちじくの木のようでした。エルサレム神殿に入ると、勢いよく葉の茂ったいちじくの木のように、人々でにぎわっていましたが、そこに霊的な実が見られませんでした。
 イエス様は神殿の境内で売り買いをして礼拝を妨げている人たちを追い出されました(15-16節)。「すべての人の祈りの家」が、神の礼拝する家でなくなったことに対して、イエス様は怒っておられるのです。
 このイエス様の怒りと、いちじくの木に対する呪いが弟子たちに示された上で、イエス様はまず「神を信じなさい」と語られました。また、24節で「祈り求めるものはすべて既に得られたと信じなさい」とも言われています。
 さらに信じて祈るとき、「そのとおりになる」と二回繰り返して強調しておられます。
 私たちは「祈ってもダメ」と言って、祈ることをやめてはなりません。私たちは祈りの中で変わるのです。信じた後に祈るのではなくて、祈りの中で信仰が与えられるのです。祈りの中で山を動かす奇跡を見る目が養われるのです(23節)。祈りがなければいくら奇跡があっても、それを奇跡と見ることができません。
 また、祈るときに大切なことがあります。それは祈りの中で恨みを抱いている人がいたら赦すということです(25節)。
 聖霊は私たちが切に祈っていくときに、人に対する恨みやわだかまり、和解すべき関係を示されます。それを解決しなければ祈り続けられないことがあるのです。人を恨んでいることで祈りが妨げるのです。
 今赦せなくても、赦していける道が、イエス・キリストを見上げるときに必ず示されるのです。神様を信じて祈っていきましょう。