○金 南錫牧師
マルコによる福音書2章23-28節
本文に出て来るファリサイ派の人たちは、律法をしっかり守ろうとしました。そのために選んだ道は、細則を作り、それを一つ一つ守り抜くということでした。確かに分かりやすい方法です。しかし、律法を厳守しようとするあまり、細則がさらに細分化され、律法が定めていた精神がどこにあったのか、忘れてしまったのです。
ある安息日に、イエス様が麦畑を通って行かれると、一緒にいた弟子たちはお腹が空いていたのか、麦の穂を摘み始めました。それを見たファリサイ派の人々が、イエスに「御覧なさい。なぜ、彼らは安息日にしてはならないことをするのか」と非難したのです。
ここで、ファリサイ派の人々が咎めているのは、麦の穂を摘む行為を、「安息日」に行なった、ということです。イエス様は「安息日は、人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない」と言われました(27節)。
安息日は、神が人のために何をしたのか、神の創造の御業、救いの御業を思い起こして、感謝し、喜び祝う日です。私たちはどのような思いで、毎週、主の日を迎え、過ごしているのでしょうか。
主日の礼拝は、行かなくてはならないものではありません。それでは、人のための安息日ではなく、律法のための安息日になってしまいます。
主日の礼拝は、安息の主である主イエスとの交わりです。行かないと、もったいなくて惜しいものなのです。