2023年4月2日「恐れることはない。ただ信じなさい。」

○金 南錫牧師   ルカによる福音書8章40-56節

ヤイロという人が、イエスの足もとにひれ伏し、自分の家に来てくださるように願いました。それは、12歳ぐらいの一人娘が死にかけていたからです。イエスがそこに向かう途中で、12年間も出血が止まらない病を患っていた女が群衆の中に紛れ込んで、後ろからイエスの服の房に触れたのです。イエスは自分の内から力が出て行ったのを感じて「わたしに触れたのはだれか」と言われました。彼女は隠しきれないと知って、震えながら進み出てひれ伏し、触れた理由とたちまちいやされた次第とを皆の前で証しました。イエスは彼女に「娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい」と宣言したのです。

この救いの出来事を目撃していたヤイロに「お嬢さんは亡くなりました。・・・」との知らせが届きました。ヤイロは途中で出血の止まらない女の割り込みがなければ、助かったかも知れないと思ったのかも知れません。この時、イエスは会堂長ヤイロに「恐れることはない。ただ信じなさい」と語りかけたのです。それは、想定外の出来事が起こっても、先のことを神に、主イエスに委ねていくことです。

2023年3月19日「神があなたになさること」

○金 南錫牧師   ルカによる福音書8章26-39節

悪霊に取りつかれている男が、イエスを見ると、わめきながらひれ伏し、大声で叫びました。「いと高き神の子イエス、かまわないでくれ。頼むから、苦しめないでほしい」。それは「イエスが、汚れた霊に男から出るように命じられたからである」とあります。悪霊たちは、豚が自分たちの新しい居場所として適していると思ったのでしょうか。「悪霊どもが豚の中に入る許しを願うと、イエスはお赦しになった」とあります(31節)。悪霊たちは男から出て行き、豚の群れに入ります。すると、豚の群れは崖を下って湖になだれ込み、おぼれ死んだのです。

「そこで、この出来事を見ようとしてやって来た人たちは、イエスのところに来ると、悪霊どもを追い出してもらった人が、服を着、正気になってイエスの足もとに座っているのを見て、恐ろしくなった」(35節)。悪霊たちから解放された男は、イエスの足もとに座り、神の言葉、イエスの言葉を聞くようになりました。そのことが彼を正気にさせたのです。男は家へ帰ります。そしてイエスが自分にしてくださったことを町中にことごとく言い広めたのです。福音を聞いたことのないこのゲラサ地域において、開拓伝道のパイオニアとして遣わされたのです。

2023年3月12日「この方はどなたなのだろう」

○金 南錫牧師   ルカによる福音書8章22-25節

イエスは弟子たちと一緒に船に乗り、「湖の向こう岸に渡ろう」と言われました。弟子たちはイエスの招きに従い、船に乗り込みました。ところが、弟子たちが船を漕ぎ出してしばらくすると、突風が吹き下ろしてきました。弟子たちは突然の嵐に見舞われました。嵐の中、弟子たちは必死に船の中の水を汲み出し、できる限りのことをしていたと思います。

ところが、いくら頑張っても、船は沈みそうになりました。命の危機を感じた弟子たちは近寄って、イエスを起こし「先生、先生、おぼれそうです」と言いました。すると、イエスは起き上がって、風と荒波とをお叱りになると、静まって凪になりました。そして、「あなたがたの信仰はどこにあるのか」と言われたのです(25節)。

ここで、イエスは弟子たちに、あなたがたは「湖の向こう岸に渡ろう」というイエスの招きに従って、この船に乗り込んだのではないか。あなたがたの信仰は今ここに私と共にあるはずではないか。そう問いかけて、弟子たちのあるべき信仰をしっかりと見つめさせようとしたのです。

2023年3月5日「どう聞くべきか」

○金 南錫牧師   ルカによる福音書8章16-21節

「ともし火をともして、それを器で覆い隠したり、寝台の下に置いたりする人はいない。入って来る人に光が見えるように、燭台の上に置く」(16節)。ここで「ともし火」とは、私たちが受け取った神の言葉だということができます。私たちは主イエスが蒔いた神様の言葉を受け取りました。ですから、「ともし火を灯したら、それをいつまでも覆い隠したり、寝台の下に置いたりせず、燭台の上に置く」ように、私たちが受け取った神の言葉を隠したり、見えなくしたりするのではなく、他の人に見えるようにすることがここで問われているのです。

 「だから、どう聞くべきかに注意しなさい。持っている人は更に与えられ、持っていない人は持っていると思うものまでも取り上げられる」(18節)。ここで言われているのは、神の言葉を持っている人は更に与えられ、神の言葉を持っていない人は持っていると思うものまでも取り上げられるということです。私たちは、神の言葉を持っている者として、神の言葉を新たに聞き続け、他の人に宣べ伝えることが出来ますよう、祈り願います。

2023年2月26日「まかれた種」

○金 南錫牧師   ルカによる福音書8章4-15節

「種を蒔く人が種蒔きに出て行った」(5節)。この種蒔きは種を手で一杯つかんで、蒔き散らします。種は様々なところに落ちます。道端に蒔かれた種は「御言葉を聞くが、信じて救われることのないように、後から悪魔が来て、その心から御言葉を奪い去る人たちのこと」です。石地に落ちた種は「御言葉を聞くと喜んで受け入れるが、根がないので、しばらくは信じても、試練に遭うと身を引いてしまう人たちのこと」です。茨の中に落ちた種は「御言葉を聞くけれども、途中で人生の思い煩いや富や快楽に覆いふさがれて、実が熟するまでに至らない人たちのこと」です。良い地に落ちた種は「立派な善い心で御言葉を聞き、よく守り、忍耐して実を結ぶ人たちのこと」です。このたとえの中心は、種を蒔く人の姿にあります。自分は道端なのか、石地なのか、茨なのか、そこに目を向いて嘆くよりも、私たちに種を蒔き続けてくださる主イエスの変わらぬ愛により目を向けたいと願います。

2023年2月5日「変えられた人々」

○金 南錫牧師   ルカによる福音書8章1-3節

「すぐその後、イエスが神の国を宣べ伝え、その福音を告げ知らせながら、町や村を巡って旅を続けられた」(1節)。ここで「すぐその後」というのは、先週、ファリサイ派のシモンという人の家で、イエス様が罪深い女を赦した、その出来事のすぐあとに、ということです。

イエス様は神の国の福音を宣べ伝えながら、町や村を巡られました。それに十二弟子も一緒でした。そして、その一行を陰で支えていた人たちが出て来ます。

 イエス様の一行には女性たちがいました。「七つの悪霊を追い出していただいたマグダラの女と呼ばれるマリア」「ヘロデの家令クザの妻ヨハナ」「スサンナ」です。スサンナについては、聖書に何も書いてないので、よく分かりません。

 マグダラのマリアは「七つの悪霊」に取りつかれていました。神に敵対する力である悪霊が七つもついていたマリアは社会の中で軽蔑され、見捨てられた人なのです。その彼女が神の国の福音を聞いて、信じ、今度は神の国の福音を宣べ伝えるイエス様の一行を支える者となったのです。

 もう一人は「ヘロデの家令クザの妻ヨハナ」です。当時、ガリラヤの領主ヘロデの家令であったクザの妻なので、地位もあり、人々にも一目置かれる立場であったと思います。

このように、イエス様に従っていた女性たちは階級の差も超えていました。共通点は主イエスを信じて、救われた人たちです。その救いの喜びと感謝のゆえに、「自分の持ち物を出し合って、一行に奉仕していた」のです。

2023年1月29日「罪深い女を赦す」

○金 南錫牧師   ルカによる福音書7章36-50節

主イエスはある日、一緒に食事をしてほしいというファリサイ派の人の願いを受け入れて、その人の家に入られました。そこに一人の女性が入って来たのです。彼女はその町で「罪深い女」として、知れ渡っていました。おそらく娼婦だろうと言われています。「後ろからイエスの足もとに近寄り、泣きながらその足を涙でぬらし始め、自分の髪の毛でぬぐい、イエスの足に接吻して香油を塗った」(38) 。彼女はイエス様を前にして、あまりの感動に涙がこもったのでしょうか。ただイエス様のお姿を見るだけで、涙が自然に溢れてきたのです。

その涙がイエス様の足に落ち、彼女は急いで自分の髪の毛でそれを拭き、その足に口づけをし、持参した香油をイエス様の足に塗りました。イエス様は、この女の行為を止めることはされませんでした。それは、どうしてこのようなことをするのか、彼女の心をよく分かったからです。彼女は自分の多くの罪をイエス様によって赦されることを信じ、感謝と喜びに溢れたのです。

2023年1月22日「洗礼者ヨハネとイエス」

○金 南錫牧師   ルカによる福音書7章18-35節

ガリラヤの領主ヘロデの結婚に対して、洗礼者ヨハネは恐れず批判したために、捕えられ、牢に閉じ込められてしまいました。ヨハネが牢獄にいる間、公の生涯を始められた主イエスは、悪魔の試みに打ち勝ち、汚れた霊に取りつかれた男をいやし、漁師のシモン達を弟子として招きました。そしてそれまで誰も聞いたことのない新しい、権威ある教えを説かれたのです。そして今日の箇所の直前には、百人隊長の僕を癒したり、やもめの息子を生き返らせたりする軌跡を起こされています。こうした主イエスの様々な活動を、牢獄に捕らわれていたヨハネは見ることができませんでした。そしてヨハネは、弟子たちの中から二人を呼んで、主イエスのもとに送り、「来るべき方は、あなたでしょうか。それとも、ほかの方を待たなければなりませんか」と尋ねさせました(19節)。彼が牢獄に閉じ込められる前に語って来たことは、神の裁きの宣言でした。そして、ヨハネは来るべき方、ナザレのイエスが、いつ聖なる裁きを為してくださるのか、期待していました。けれどもいつまで経ってもそのような動きが見られないので、「来るべき方は、あなたでしょうか」と聞いたわけです。

このヨハネの問いに対して、主イエスはイザヤの預言の言葉を引用して、「行って、見聞きしたことをヨハネに伝えなさい。目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、重い皮膚病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている。わたしにつまずかない人は幸いである」と言いました。つまり、主イエスは今この預言が成就していることを、ヨハネに伝えなさい、今起きていることこそ、メシアのしるしであると言ったのです。

2023年1月15日「イエスの洗礼」

○金 南錫牧師   ルカによる福音書3章15-38節

洗礼者ヨハネは民衆から、この人がメシア、救い主ではないかと、心の中で思われていたのです。ところが、ヨハネは「わたしより優れた方が来られる。わたしは、その方の履物のひもを解く値打ちもない」と言って(16節)、この後、救い主が来られることを告げています。さらに、領主ヘロデが、自分の悪事をヨハネから非難されることで、「ヨハネを牢に閉じ込めた」とあります(18節)。これは、ヨハネの役割は主イエスをお迎えするための、主の道を整えること、それまでのことを示しています。この後、イエス様は洗礼を受けられました。

イエス様が洗礼を受けて祈っておられると、天が開け、聖霊が鳩のような姿でイエスの上に降って来ました。そして、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が、天から聞こえた」とあります。これは、洗礼を受けて、人と同じようにして生きたいとされた主イエスに対する、父なる神の祝福の宣言であったのです。

2023年1月8日「主の道を整えるもの」

○金 南錫牧師   ルカによる福音書3章1-14節

ヨハネは荒れ野で神の言葉を聞き、それからヨルダン川に行って、洗礼を通して人々に罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えました。悔い改めとは、神の方に向きを直す。そして、神のもとに帰ることです。ヨハネは神へと向きを直した人々に、救いのしるしとして洗礼を授けていました。

また、彼が何よりも強く批判したのは、イスラエルの民の安易な選民思想でした。当時のユダヤ人たちは、自分たちは神に選ばれた特別な民、アブラハムの子孫だから、神の怒りを受けるのは自分たちではなく、異邦人の者たちだと考えていたのです。しかし、神の前にはすべての者が救いを必要としています。ユダヤ人もまた、主に立ち帰って救いを受ける必要があります。5節、6節に「谷はすべて埋められ、山と丘はみな低くされる。曲がった道はまっすぐに、でこぼこの道は平らになり、人は皆、神の救いを仰ぎ見る。』」と書いてある通りです。