2021年1月17日「天と地の創造」

○金 南錫牧師 創世記1章6-13節

 神様は天地創造の第一日目に光を創造されました。そして、第二日目に天を創造されました。古代の人々は、「大空」というのを、地を覆っている固い丸い天井のように、想像しておりました。また、その天井に月や星などが、貼り付いていると考えました。

 二日目に天という世界を創造された神様は、次の三日目に地上世界を創造されました。「神は言われた。『天の下の水は一つ所に集まれ、乾いた所が現れよ。』そのようになった。神は乾いた所を地と呼び、水の集まった所を海と呼ばれた。神はこれを見て、良しとされた」(9節、10節)。しかし、三日目の創造はまだ続きます。「神は言われた。『地は草を芽生えさせよ。種を持つ草と、それぞれの種を持つ実をつける果樹を、地に芽生えさせよ。』そのようになった。地は草を芽生えさせ、それぞれの種を持つ草と、それぞれの種を持つ実をつける木を芽生えさせた。神はこれを見て、良しとされた」(11節、12節) 。神様は天の下の水が一か所に集まって、地と海とを分けられました。この時、まだ動物や人間が現れていませんが、やがて造られる動物や人間が生きていける地上世界が、天地創造の三日目に創造されたのです。この世界は神の良しとされた世界です。

2021年1月10日信徒奨励「すべて神の栄光が現れるために」

○KM兄 コリントの信徒への手紙一10章31節

 人の一生は誕生(BirthのB)に始まり、死亡(DeathのD)で終わります。このBとDの間のCは本人の選択(ChoiceのC)で、このCにより人生は彩られると言われています。
 1932年にスタートした私の人生はいまだ続いていますが、これまでに多くの選択がありました。
 第二次世界大戦の勃発、そして祖国の敗戦。我国未曾有の時流の中で、人生の価値を真剣に考えさせられました。そして聖書を通してイエス・キリストと出会い、彼の言葉を信じて洗礼を受けました。この選択はその後の私の人生に大きな影響をもたらしました。
 父の跡を継いで医者の道を選びました。その道の入り口で「我孵りなば」と題するアンケートがあり、目指す医師像を問われました。
 「医者を必要とするのは健康な人ではなく病人である」というキリストの言葉がありますが、病人の求めに応えられる医者になりたい、そして「食べるにしろ飲むにしろ、何をするにしてもすべて神の栄光を現すために」というパウロの言葉を目指したいと答えました。
 残されていたこの記録を今読んでみて、若かりし頃の意気込みを懐かしく思うと同時に、若い日にこの選択をしてとても良かったと思います。
 人様にご迷惑をお掛けした選択も少なくなかったと思いますが、よい結果につながり、大きな歓びと満足がありました。自分の創り主とつながっていた(AnchorのA)からだと思います。
 皆様もどうぞご自身の創り主とつながる選択により満足されるABCDをお過ごしください。

2021年1月3日「初めに」

○金 南錫牧師 創世記1章1-5節

 存在するすべてのものは、存在を与えられて存在しています。私は何のために生きているのか、なぜ私はこの人生に呼ばれたのか、それは、本当に存在を与えた方に絶え間なく聞くしかないのです。
 「初めに、神は天地を創造された」(1節)。
 この言葉は、私を創造し、私を存在させてくださった方にその意味を問い、この私を存在させてくださった方の意図に添って生きるのが、人生であることを教えています。「初めに、神は天地を創造された」この神の宣言によって始まる世界観を信じる人においては、決して偶然というものや、無意味に存在する者などないのです。
 「地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。神は言われた。『光あれ。』こうして、光があった」(2,3節)。
 すべてのことが混沌の中に呑み込まれる中で、神様は「光あれ」と語ってくださり、そこに意味を与えてくださいました。
 ですから、「光あれ」この言葉は、「私なんか生きる価値がない」と思い込んで、諦めてしまうしかない中で、「あなたは生きる意味があり、存在する価値があり、使命がある」と、神が宣言し、そのような世界を造られたのです。

2020年12月27日「御子イエスの成長」

○金 南錫牧師 ルカによる福音書2章40-52節

 イエスの誕生物語のほかに、救い主として公の活動を始める前の間にある記事は、今日の聖書箇所の十二歳の時の記事だけとなっています。
 イエス様の家族は、ガリラヤのナザレという小さな村に住んでおりました。毎年、春には家族みんなで、エルサレムに向かい、過越の祭りを祝って帰って来たのです。
 祭りが終わり、ナザレへと帰路に着いたとき、十二歳の少年イエスが、両親とはぐれてしまいました。三日もたち、やっとの思いで、神殿の境内にいる少年イエスを見つけた両親に向かって、イエス様は言われました。
 「どうしてわたしを捜したのですか。わたしが自分の父の家にいるのは当たり前だということを、知らなかったのですか」(49節)。
 両親はこの少年イエスの言葉の意味を分かりませんでした。しかし、母マリアは「これらのことをすべて心に納めていた」のです(51節)。
 今年一年の歩みは、どうだったのでしょうか。思いもよらない出来事に振り回され、未だに何の意味も見出せない、分からないことがたくさんあると思います。
 でも、マリアのようにそのすべてのことを「心に納めている」ことで、いつか時が来たときに、「そういうことだったのか」と納得することがあるでしょう。

2020年12月20日「神がともに」

○金 南錫牧師 ルカによる福音書2章1-20節

 ローマ皇帝アウグストゥスはユダヤの人たちに、住民登録をせよと命令を出しました。それは、税金を納めるためでした。権力者の命令に、ヨセフとマリアも従わなければなりません。
 しかし、二人にとってはそのタイミングが悪すぎでした。マリアはイエス様を妊娠していて、もうお腹が大きくなったからです。二人が住んでいたナザレという村からベツレヘムという町まで、1週間以上の長い旅をしてやっとベツレヘムの町に着きましたが、住民登録のため、ベツレヘムに大勢の人が集まり、「宿屋にはヨセフとマリアが泊まる場所がなかった」のです(7節)。
 仕方なく、二人は誰かの馬小屋に泊まって、マリアはそこでイエス様を生むことになりました。そして、生まれたばかりの幼子イエス様は、家畜の餌を入れる飼い葉桶に寝かされました。それはこの世に来られた救い主の誕生にしては大変にみすぼらしい光景でした。
 しかし、それが、神様の私たちに対する愛のしるしであったのです。なぜなら、そのような場所であるからこそ、私たちは何のためらいもなく近づくことができます。
 そしてイエス様を遣わした神の愛に私たちが触れるそのとき、私たちは本当に生かされる場所が与えられるのです。

2020年12月13日「シメオンの賛歌」

○金 南錫牧師 ルカによる福音書2章22-35節

 今日の聖書箇所には、自分の人生の残り時間がどのようなものになるか決める模範となるような、シメオンという年老いた男が登場しています。
 彼は、神様の前に正しい人で信仰が厚く、神様を中心に生きてきた人でした。そして、イスラエルの慰められるのを待ち望んでいたのです。
 「慰められる」ことは「救われる」ことを意味しています。シメオンは、自分だけが救われることを願うのではなく、神の民イスラエル全体が救われ、慰められることを願い、救い主が到来するのを待ち望んでいました。
 シメオンは、「霊」に導かれて神殿の境内に入っていきました。すると、ちょうどその時に、幼子イエスを抱いたヨセフとマリアが来たのです。シメオンは、その幼子を腕に抱き、神をたたえたのです。
 「主よ、今こそあなたは、お言葉どおり、この僕を安らかに去らせてくださいます。わたしはこの目であなたの救いを見たからです。これは万民のために整えてくださった救いで、異邦人を照らす啓示の光、あなたの民イスラエルの誉れです」。
 シメオンはその生涯の終わりにおいて、主の平安のうちに死を迎えることのできる恵みを知らされ、万民のために神の救いが到来したことを証しする務めを、神様から与えられました。

2020年12月7日「この身に神の言葉が」

○金 南錫牧師 ルカによる福音書1章26-38節

 マリアは、ナザレというガリラヤの町に住んでいました。彼女は同じ町に住む大工のヨセフと結婚の約束をしていました。
 結婚の日を楽しみにしていたマリアの前に天使が現れ、「おめでとう、恵まれた方、主があなたと共におられる」と告げました。
 突然のことに、マリアはびっくりして、何のことを言われているのか分かりませんでした。すると、天使は「マリア、恐れることはない。あなたは神様から恵みをいただいた。あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい。その子は偉大な人になり、いと高き方の子と言われる」と言われました。
 マリアはますます驚いて、天使に尋ねました。「わたしはまだ男の人を知りませんのに、どうして、そんなことがありえましょうか。」
 マリアには次々と疑問が浮かび上がりました。そのマリアに天使は答えます。「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。だから、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる。・・・神にできないことは何一つない」(35-37節)。
 マリアの疑問と不安は解消されたわけではありませんが、それでもマリアは、はしためのような自分を選んでくださった神に感謝し、「お言葉どおり、この身に成りますように」と神に従う決心をしたのです(38節)。

2020年11月29日「主イエスの顕現」

○金 南錫牧師 マルコによる福音書16章9-20節

 「イエスは週の初めの日の朝早く、復活して、まずマグダラのマリアに御自身を現された」(9節)。
 復活されたイエス様は、信じられないでいる人のところに近づき、現れてくださいました。
 マグダラのマリアはイエス様の十字架を遠くから見守り、イエス様に油を塗りに行くために、墓へ向かいました。しかし、イエス様のなきがらがそこになかったのです。その代わりに、天使のような若者の声が響きました。
 「驚くことはない。あの方は復活なさって、ここにはおられない。」
 マグダラのマリアはその墓を出て逃げてしまったのです。あまりにも恐ろしかったので、「だれにも何も言わなかった」とあります(8節)。
 皆逃げてしまった弟子たちよりもイエス様を愛していたように見えたマグダラのマリアも、イエス様のことを信じていなかったのです。
 そのマリアのところへ、復活したイエス様がやって来られました。すると、「だれにも何も言わなかった」マリアが立ち上がって口を開き、語る者となったのです。マリアは泣き悲しんでいる人たちのところへ行って、復活したイエスのことを知らせたのです。

2020年11月22日「イエスの復活」

○金 南錫牧師 マルコによる福音書15章42-16章8節

 イエス様の埋葬の役割を担ったのは、アリマタヤ出身のヨセフです。彼はイエス様の十字架の出来事に触れて、勇気を出し、総督ピラトのところに行って、イエスの遺体の引き取りを願い出たのです。
 ピラトは百人隊長を呼び寄せて、本当に死んでしまったかどうかを確かめた上で、遺体の引き渡しを許しました。それでアリマタヤのヨセフは、イエスの遺体を十字架から下ろして亜麻布で巻き、岩を掘って造った墓の中に納めました。墓の入り口には石を転がして蓋をしました。
 安息日が終わると、マグダラのマリアをはじめ女性の弟子たちがイエス様の遺体に油を塗るために、墓へ向かいました。彼女たちは、「だれが墓の入り口からあの石を転がしてくれるでしょうか」と話し合っていたのです。不思議にも、入り口の石が既にわきへ転がしてあったのです。しかも、天使のような若者が「あの方は復活なさって、ここにはおられない」と語ります。
 様々の時代において、教会員一人一人は、この主イエスの復活を信じて、歩んでこられました。信仰を命にして生きたのです。今、その信仰が私たちにも、受け継がれてきたのです。

2020年11月15日「わが神、わが神」

○金 南錫牧師 マルコによる福音書15章33-41節

 いよいよイエス様の死の時が来ました。
 イエス様が十字架につけられたのは、朝の九時頃でした。周りを取り囲んだユダヤ人たちが大声でイエス様をののしる中、昼の十二時になると、全地は暗くなり、それが三時まで続いたのです。
 その暗闇の中で、三時頃にイエス様は大声で叫ばれました。「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ」「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」という意味です。
 このイエス様の叫びを聞いて、十字架の周りにいた人たちはエリヤを呼んでいると勘違いをしました。そして、酸い葡萄酒をむりやり飲ませて、もう少し生かしておけばそのうちにエリヤが彼を降ろしに来るかどうか、見ていようというのです。
 イエスが受けた肉体の苦しみや様々な侮辱以上に、最も大きな苦しみは神様から見捨てられる苦しみでした。
 イエス様が神に見捨てられたのは、私たちと同じ人間となって、神に捨てられることがどんなに恐ろしいことかを十字架上でお示しになったのです。
 多くの人にとって、十字架はつまずきでしかありません。しかしそれこそが、福音であります。