2021年10月24日「主の慈しみとまこと」

○金 南錫牧師  創世記24章1-27節

 アブラハムは年寄りの僕に息子イサクの嫁にふさわしい女性を見つけてくるように命じました。ところが、二つの条件がありました。一つは、「今住んでいるカナンの娘から取るのではなく、わたしの一族のいる故郷へ行って、嫁を連れて来る」ということでした(3-4節)。もう一つは、イサクを決して嫁のところへ行かせてはならないことでした(6節)。あくまでも、このカナンの土地へ来てもらうということです。

 僕は無事に目的地に辿り着きました。その日の夕方、僕はらくだを町外れの井戸の傍らに休ませて、祈りました(11-4節)。イサクの結婚相手は、最終的には神が選び与えてくださると信じて、その御心を求めて祈ったのです。僕がまだ祈り終わらないうちに、一人の若い女性が水がめを肩に載せて井戸にやってきました。彼女は労をいとわず、老僕とらくだ十頭に水を飲ませてくれる心の優しい女性でした。僕は、神の導きと備えを信じ、絶えず祈りながら、ゆだねられた任務を果たしています。また、願いがかなうと「主の慈しみとまことはわたしの主人を離れず、主はわたしの旅路を導き、主人の一族の家にたどりつかせてくださいました」と神に感謝し、神をほめたたえています(27節)。これはイサクの結婚に限らず、すべての事をなす上で、私たちのとるべき生き方です。

2021年10月17日「サラの死と埋葬」

○金 南錫牧師  創世記23章1-20節

  75歳の時、アブラハムはカナン地方に向けて旅立つことを神様から命じられました。その時、妻サラは親族知人と別れて、夫アブラハムと共に行く先も知らずに、旅立ちました。そこにはいろいろな失敗もありました。ところが、アブラハムの信仰の歩みのすべてをサラは共にして来たのです。そのサラが死にました。アブラハムは妻サラの死に対して「胸を打ち、嘆き悲しんだ」と記されています。アブラハムは、これまでのサラとの歩みを思い起こして、胸を打ち、大きな悲しみで嘆き悲しんだのです。

 しかし、続いている3節の言葉に「アブラハムは遺体の傍らから立ち上がり」とあります。アブラハムは遺体の傍らにいつまでもいることはしなかったのです。むしろ、死んだサラを葬るために、立ち上がったのです。葬ることはただ土に返すことではなくて、復活の備えをすることです。人が死ぬと、お墓に葬りますが、そのお墓は復活までの仮の宿と言えます。ですから、アブラハムはやがて復活の確かな望みをもって丁寧に妻サラを葬ったのではないでしょうか。私たち信仰者は、復活の確かな望みをもって、天にある故郷を望み見て、この世を生きる旅人であります。

2021年10月10日「最大の試練」

○金 南錫牧師  創世記22章1-24節

 神様がアブラハムに与えた試練は、愛する独り子イサクを「焼き尽くす献げ物としてささげなさい」という神の命令でした。長い間神から約束されて与えられた子どもなのになぜと、アブラハムの中に葛藤や疑問があったはずです。しかし、アブラハムは「次の朝早く」イサクと共に神の命じられた所、モリヤの地に向かって行きました。その時、イサクは「わたしのお父さん、火と薪はここにありますが、焼き尽くす献げ物にする小羊はどこにいるのですか」と尋ねます(7節)。イサクの質問は、アブラハムの胸をえぐるような問いでした。しかし、アブラハムの行動は最後まで揺らぎませんでした。

 神が命じられた場所に着くと、アブラハムはイサクを縛って祭壇の薪の上に載せ、刃物を取って息子イサクを殺そうとしました。その時、主の御使いが「その子に手を下すな。何もしてはならない。あなたが神を畏れる者であることが、今、分かったからだ。あなたは、自分の独り子である息子すら、わたしにささげることを惜しまなかった」と言って、そこに雄羊を備えてくださったのです。アブラハムにとって、「ヤーウェ・イルエ、神は備えられる」この恵みを生涯忘れなかったのでしょう。

2021年10月3日「アビメレクとの契約」

○金 南錫牧師  創世記21章22-34節

 アブラハムはアビメレクから、「神は、あなたが何をなさっても、あなたと共におられます」と言われたように、日常生活において尊敬される証を立てていました。ですから、アビメレクはアブラハムとの間に友好的な関係を築いておきたいと願うようになったのです。これに対して、アブラハムは応じます。27節にあるように、アブラハムは、羊と牛の群れを連れて来て、アビメレクに贈り、二人は契約を結びます。なお、この契約が結ばれたところを、「ベエル(井戸)・シェバ(七)」と呼ばれるようになりました(31節)。つまり、七頭の小羊がアブラハムの掘った井戸の証拠としてアビメレクに手渡されました。

 最後の33、34節に「アブラハムは、ベエル・シェバに一本のぎょりゅうの木を植え、永遠の神、主の御名を呼んだ。アブラハムは、長い間、ペリシテの国に寄留した」とあります。アブラハムは井戸の所有権が認められたので、安心してベエル・シェバで住めるようになりました。その以後、このベエル・シェバは、アブラハムとイサクが活躍する舞台となりました。またアブラハムはそこで、「永遠の神、主の名を呼び」つつ、礼拝生活を始めました。その時、アブラハムは、神が共にいてくださる喜びを味わっていたでしょう。

2021年9月26日「イサクとイシュマエル」

○金 南錫牧師  創世記21章1-21節

 今日の聖書箇所は、アブラハムとサラの間に約束の子が生まれたところから始まっています。いわゆるイサクの誕生です。1節、2節にあるように、主なる神は「約束されたとおりサラを顧み、さきに語られたとおりサラのために行われたので、彼女は身ごもり、年老いたアブラハムとの間に男の子を産んだ」のです。アブラハムが100歳、サラが90歳の時でした。聖書は、「それは、神が約束されていた時期であった」と記しています。

 アブラハムは、生まれた子の名前を「イサク」と名付けました。イサクというのは「笑う」という意味で、イサクが与えられたことは、喜びの笑いをもたらす出来事でした。6節に、サラがこう言いました。「神はわたしに笑いをお与えになった。聞く者は皆、わたしと笑い(イサク)を共にしてくれるでしょう。」ここには、サラの喜びの声が充満して、サラが心から笑い、聞く者は皆、わたしと笑いと共にしてくれるでしょう、という喜びの笑いと、イサクという名は結びつくのだ、と言っています。また、サラは言いました。「誰がアブラハムに言いえたでしょう。サラは子に乳を含ませるだろうと。しかしわたしは子を産みました。年老いた夫のために」(7節)。ここには、私のような老人が子どもに乳を呑ませようとは、誰も思っていなかったでしょうが、子どもを産んで、乳を呑ませることができて、喜んでいる姿が目に浮かびます。

 しかし、これでめでたしとはいきません。8節から10節までを見ますと、イサクが乳離れしたころ、サラは、自分の女奴隷ハガルがアブラハムとの間に産んだイシュマエルが、イサクをからかっているのを見て、夫アブラハムに「あの女とあの子を追い出してください。あの女の息子は、わたしの子イサクと同じ跡継ぎとなるべきではありません」と訴えました。アブラハムは非常に苦しみました。イシュマエルも自分の子だからです。ここで、神様はアブラハムにサラに従うように命じます。12節、13節に「神はアブラハムに言われた。『あの子供とあの女のことで苦しまなくてもよい。すべてサラが言うことに聞き従いなさい。あなたの子孫はイサクによって伝えられる。しかし、あの女の息子も一つの国民の父とする。彼もあなたの子であるからだ』」とある通りです。

 結局、アブラハムは苦しみつつも、ハガルとイシュマエル親子を自分のもとから追い出します。ハガルがパンと水の革袋を背負い、わが子を連れて出ていく姿は、想像するだけで切なくなります。途中、荒れ野でさまようハガルは、革袋の水が無くなると、瀕死の状態に陥ったイシュマエルを一本の灌木の下に寝かせ、 「わたしは子供が死ぬのを見るのは忍びない」と言って、少し離れたところに座り込みます。そして声をあげて泣いたのです(16節)。「荒れ野をさまよう」とは、行く先がないということです。イサクが生まれた瞬間から、ハガルもイシュマエルもこの地上に存在する意味、生きる理由を失いました。でも、神様はイシュマエルの泣き声を聞いてくださいました(17節)。イシュマエルという名前は、「神は(エル)、聞かれる(イシュマ)」という意味です。神様はイシュマエルの泣き声を聞かれました。彼の苦しみ、悲しみに目を向けてくださったのです。なぜなら彼もアブラハムの子として、アブラハムの祝福のうちにあるからです。

2021年9月19日「とりなしの祈り」

 ○金 南錫牧師  創世記20章1-18節

 アブラハムは今まで長く住んでいたヘブロンから更に旅を続けて、ネゲブ地方へ移りました。そして、カデシュとシュルの間にあるゲラルに住むようになりました。1節後半から2節に「ゲラルに滞在していたとき、アブラハムは妻サラのことを、『これはわたしの妹です』と言ったので、ゲラルの王アビメレクは使いをやってサラを召し入れた」とあります。どこかで見たことのある光景です。創世記12章10節以下を見ると、アブラハムが神の召しを受けて、故郷を離れ、カナンに来たすぐ後に、飢饉を逃れてエジプトに下ったことがありました。その時もアブラハムは、妻のサラに妹だと言ってくれと頼んだことがありました。サラの美しさのゆえに、夫だと分かると、自分は殺されるからというのです。その時、サラはエジプト王ファラオの宮廷に召し入れられます。それと同じように、今度はネゲブでアビメレクという王に同じことをやっているのです。ゲラルの王アビメレクは、アブラハムが「これはわたしの妹です」と言ったので、彼は使いをやってサラを召し入れました。

 ところが、その夜、神様が夢の中でアビメレクに現れ、「あなたは、召し入れた女のゆえに死ぬ。その女は夫のある身だ」と言われるのです(3節)。これに対して、アビメレクは、まだ彼女に近づいていなかったので、こう言いました。「主よ、あなたは正しい者でも殺されるのですか。彼女が妹だと言ったのは彼ではありませんか。また彼女自身も、『あの人はわたしの兄です』と言いました。わたしは、全くやましい考えも不正な手段でもなくこの事をしたのです」(4-5節)。ここで、アビメレクは、サラを召し入れたことに対して、アブラハムとサラ本人たちが偽ったからだと言っています。アビメレクはその心に何のやましさもないのです。それを主なる神が、認めています(6節)。

 さらに、アビメレクはアブラハムを呼んで言いました。「どういうつもりで、こんなことをしたのか」(10節)。この問いに対して、アブラハムは「この土地には、神を畏れることが全くないので、わたしは妻のゆえに殺されると思ったのです・・・」と自分の気持ちを率直に語りました(11-13節)。アブラハムの言葉を聞いたアビメレクは、彼の弁明を受け入れ、羊、牛、男女の奴隷などを取って、アブラハムに与えて、妻サラを返しました(14節)。そして、最後に「アブラハムが神に祈ると、神はアビメレクとその妻、および侍女たちをいやされたので、再び子供を産むことができるようになった」とあります(17節)。アブラハムは、異邦人の王アビメレクを通して、自分の弱さ、その偽りを露にされ、本来なら直ちにゲラルの地から追放されて然るべきです。さらに、彼自身も、もう逃げ出したいほど恥ずかしい思いをしているはずです。けれども、アブラハムは逃げることは許されません。神に選ばれた者、預言者としてしなければならないことがあるのです。それは、アビメレクと彼の宮廷に住む人々のために祝福を祈るということです。神は私たちを通して、世界を祝福し続けてくださるのです。

2021年9月12日「神の審判と救済」

○金 南錫牧師  創世記19章1-38節

ソドムの門の所に座っていたロトが、二人の御使いを見ると、急いで迎え入れようとします。ところが、二人の御使いははじめこれを辞退します。しかしロトは、ソドムの町の危険なことをよく分かっていました。ですから、何とか家に引き入れて、その上でもてなしたかったのです。ところが、ロトのところに来客があったことを聞きつけ、ソドムの男たちがやってきます。4節に「若者も年寄りもこぞって押しかけ、家を取り囲んで、わめきたてた」とあります。彼らはロトに向かって言いました。「今夜、お前のところへ来た連中はどこにいる。ここへ連れて来い。なぶりものにしてやるから」(5節)。ここで「なぶりものにする」とは、性的な意味で、男の同性愛のことを指しています。

ロトは、戸口の前にたむろしていた男たちのところに出て行き、「どうか、皆さん、乱暴なことはしないでください。実は、わたしにはまだ嫁がせていない娘が二人おります。皆さんにその娘たちを差し出しますから、好きなようにしてください。ただ、あの方々には何もしないでください」と言いました(7、8節)。

しかし、ソドムの男たちは「そこをどけ。こいつは、よそ者のくせに、指図などして。さあ、彼らより先に、お前を痛い目に遭わせてやる。そして、ロトに詰め寄って体を押しつけ、戸を破ろうとした」のです(9節)。そのときに、二人の客は、手を伸ばして、ロトを家の中に引き入れて戸を閉め、戸口の前にいる男たちに、目つぶしを食わせ、戸口を分からなくしました(10、11節)。このことを通して、二人の客がただの人ではなく、主なる神の御使いであることが示されます。

二人の御使いは、ロトにソドムの町が主によって滅ぼされることを告げます。同時に、その滅びから逃げるようにすすめました。ロトは娘たちの婿のところへ行き、「さあ早く、ここから逃げるのだ。主がこの町を滅ぼされるからだ」と促しましたが、婿たちは「冗談」だと思って、逃げないのです(14節)。このように、私たちもこの世界の終末や神の裁きについて、なかなか本気になることができないでいるのではないでしょうか。

いよいよソドムの地に神の審判がくだりました。夜が明けるころ、御使いたちはロトに「さあ早く、あなたの妻とここにいる二人の娘を連れて行きなさい。さもないと、この町に下る罰の巻き添えになって滅ぼされてしまう」と強く警告します(15節)。しかし「ロトはためらっていた」とあります。では、ためらっていた中途半端な信仰の者を、神様は何故、救おうとされるのでしょうか。その理由の一つは主の憐れみなのです。16節に「ロトはためらっていた。主は憐れんで、二人の客にロト、妻、二人の娘の手をとらせて町の外へ避難するようにされた」とあります。ロトの救いは、彼が強い信仰を持っていたからではなく「主は憐れんで」と書いてあるように、ただ主の憐れみによって与えられたのです。私たちの救いも同じではないでしょうか。ただ神様の憐れみによって救いの道が示され、神様に手を引かれてその道を歩み出し、神の裁きから救い出されるのです。

2021年9月5日「アブラハムの祈り」

○金 南錫牧師  創世記18章16-33節

 三人の旅人、即ち主なる神と二人の天使はアブラハムにイサクの誕生を約束され、そのあと、ソドムの方へ進んで行かれます。そして、神はその目的をアブラハムに明らかにされたのです。20節、21節に書いてあるように、神様は「ソドムとゴモラの罪は非常に重い」ことを指摘されました。そして、彼らの実態を調べるために現地を訪問しようとなさったのです。その時、アブラハムは、ソドムの町がその罪のゆえに滅ぼされないように、神に祈っているのです。そのことが、23節以下の神との問答です。23節から25節を見ますと、アブラハムは、最初、確かにソドムの町には悪い人もいるかもしれない、しかし、正しい人もいるはずであるということで、その両者を一緒に滅ぼすとは不正なことではないかと神に訴え出ています。神様はそれに対して、「もしソドムの町に正しい者が五十人いるならば、その者たちのために、町全部を赦そう」と語ります(26節)。しかし、それに対して、アブラハムは町の滅びを回避するために、「もしかすると、五十人の正しい者に五人足りないかもしれません。それでもあなたは、五人足りないために、町のすべてを滅ぼされますか」と問います(28節)。そこで神は言います。「もし、四十五人いれば滅ぼさない」。また、さらに、40人、30人、20人ではと言い、最後に10人では、と問うのです。まことにねばり強い交渉であります。そして、アブラハムはついに「その十人のためにわたしは滅ぼさない」という神の言葉を引き出します(32節)。

 このアブラハムの神との交渉に示されていることは、私たちの祈りの姿勢に対する一つの大きなチャレンジであります。つまり、一度や二度では引き下がらない大胆さと、ねばり強さが問われています。アブラハムはそのような聖書的な祈りの最初のモデルであると言えます。

 では、アブラハムの「ねばり強い祈り」の原点は何でしょうか。それは、アブラハムが祈り始める直前に記されています。22節にこう記されています。「その人たちは、更にソドムの方へ向かったが、アブラハムはなお、主の御前にいた」。ここに「アブラハムはなお、主の御前にいた」と書いてありますが、最初のヘブライ語の原文を見ますと、アブラハムではなく、「主がなお、アブラハムの前にいた」となっています。英語の聖書でも(NLT)、同じように主なる神様が主語になって、「the Lord remained with Abraham」と訳されています。つまり、これは、アブラハムがまだ何もしていないのに、神様がそのアブラハムの前にあえて留まり、佇んで、アブラハムはどうするのか、待っている、神の姿を描いているのです。アブラハムは、目の前に立ちつくしておられる神様に、大胆に、ねばり強く祈ることができました。私たちも日々、その神様の御前に出て、ねばり強く祈り続けることができますよう、祈り願います。

2021年8月29日「サラの笑い」

○金 南錫牧師  創世記18章1-15節

 暑い真昼に、アブラハムはいつものように、天幕の入り口に座って休んでいました。その時、神様は三人の旅人の姿でご自身を現されたのです。アブラハムはここで、三人の旅人を迎え入れ、もてなしました(1、2節)。 アブラハムは、客の足を洗う水を用意し、休むためのスペースを提供しました。また、妻のサラには上等な食事を用意するように促しました(6節)。アブラハム夫婦は、見知らぬ旅人をたいへん手厚くもてなします。これは、旅人をもてなす遊牧民の習慣でした。

 この習慣に従って、アブラハムは自分も走り回って、三人の旅人に文字通りのご馳走を準備しました。「アブラハムは牛の群れのところへ走って行き、柔らかくておいしそうな子牛を選び、召し使いに渡し、急いで料理させた。アブラハムは、凝乳、乳、出来立ての子牛の料理などを運び、彼らの前に並べた。そして、彼らが木陰で食事をしている間、そばに立って給仕をした」とある通りです(7節、8節)。三人の旅人が涼しい木陰で食卓に着いた時、給仕係を務めたのはアブラハムでした。このように、アブラハムは手厚く、へりくだって、見知らぬ旅人をもてなしています。ヘブライ人への手紙13章2節に「旅人をもてなすことを忘れてはいけません。そうすることで、ある人たちは、気づかずに天使たちをもてなしました」と記されていますが、この「ある人たち」とはアブラハム夫婦に違いありません。

 三人が旅立つ時に、その中の一人がアブラハムに重要なことを伝えました。それは、10節にあるように、「わたしは来年の今ごろ、必ずここにまた来ますが、そのころには、あなたの妻のサラに男の子が生まれているでしょう」という予告でした。サラは近くの天幕の入り口でその予告を耳にしました。そして、サラは心の中で笑いました。どうしても信じられなかったからです。

 このサラの笑いに対して、主なる神は「なぜサラは笑ったのか。なぜ年をとった自分に子供が生まれるはずがないと思ったのだ。主に不可能なことがあろうか」と、厳しく問われるのです。この神の問いに対して、サラは「恐ろしくなった」とあります(15節)。そして、サラはあわてて「わたしは笑いませんでした」と言いますが、主は「いや、あなたは確かに笑った」と彼女の笑いを厳しく追及されるのです。

 しかし、その追及の言葉の中に、14節の「主に不可能なことがあろうか。来年の今ごろ、わたしはここに戻ってくる。そのころ、サラには必ず男の子が生まれている」という言葉があるのです。神様はアブラハム夫婦の不信仰による笑いにもかかわらず、「来年の今ごろ、サラには必ず男の子が生まれている」という約束の言葉を繰り返し語られるのです。つまり、神様は不信仰を厳しく追及しつつ、その信仰を支えてくださるのです。約束の言葉に対して、笑ってしまうような信仰の弱さを持っていたアブラハム夫婦でしたが、彼らの信仰の弱さを、神様は支えてくださったのです。そのアブラハムの神は私たちの神でもあります。私たちの弱さ、信仰の弱さを、神様が支えてくださるのです。ですから、信仰が弱まる時、「神様、どうか私の信仰を強めてください」と祈り願いたいものであります。

 また、今日の聖書箇所の最後に、サラが笑いながらも、主への恐れを新たにしたように、いつもこの主への恐れを覚えたいものです。この主なる神への恐れがある限り、信仰は弱まらないでしょう。

2021年8月22日「勇気を出して生きられる」

○今井武彦兄  ヨハネによる福音書16章25-33節

 2013年に「イエス・キリストの体なる共同体としての教会」と題して奨励をする時を与えられました。それから8年間余りどの様に生きてきたかの一端をお話します。

 私は、奨励をした同じ年、つまり67歳の2013年春先に東邦大学病院に入院し、身体のホルモンバランス機能が低下する難病の「下垂体機能低下症」と診断されました。神様のみ力による医学の進歩で、以後今日まで服薬生活をして、命を長らえております。

 同じ2013年墓地管理委員となり、教会墓地に納骨する方のお手伝いをしました。この8年間の間に13名の方々の納骨のお手伝いをしました。納骨に当たっては、それぞれのご家庭の事情があり、悲しみ等を、直接 肌で感じる機会を与えられました。

 次に、2019年4月かねてから「ゆうゆうの里」に入居していた義母が、94歳で天に召されました。義母は、80歳位から認知症が徐々に表れ始めました。義母は、信仰を持てなかったため、最後まで、ありのままの自分を受け入れることができませんでした。

 このような経験をする機会の中で、自分の信仰について改めて考えてみようと思い、パウロ書簡、ヨハネによる福音書、ヘブライ人への手紙を中心に読みました。ヘブライ人への手紙12章5~6節に「わが子よ、主の鍛練を軽んじてはいけない。主から懲らしめられても、力を落としてはいけない。なぜなら、主は、愛する者を鍛え、子として受け入れる者を皆、鞭打たれるからである」とあります。

 今、私たちは、苦難・艱難に遭うと、自分の殻に閉じこもりがちになります。このような時こそ、自分の生活を見直さなければなりません。気を取り直し、「主イエス・キリストの父なる神様」への祈りの時を持ち、福音に帰って行くべきだと思います。しかも、神の恵みは日々新たに与えられるもので、このためには、毎週の主日礼拝は、神の恵みに気付く機会であり、欠かすことは出来ません。しかし、現実は、主イエス・キリストの父なる神を信じるということは、自分の弱さ、愚かさ、恥を告白し、さらに自分が罪人であることを勇気を出して神様に伝える、即ち、そのようなほころびの多い自分を、全てを神様に委ねることだと思うようになりました。

 「その主イエス・キリスト」と共に歩むことは、この世に生きている中で、平安を得るためであります。しかし、平安を得るということは、これまで知らない苦難にも遭うこともあります。主イエス・キリストと共に歩む私たちは、恐れることなく生きられます。

 ヨハネ16章33節には、主イエス・キリストが「しかし、勇気を出しなさい。私は既に世に勝っている」と励ましの言葉を述べています。このことはいかなる時でも「勇気を出して生きられる」ということではないでしょうか。