2020年4月の主日聖書日課から

○ゼカリヤ書 09章09~10節
 娘シオンよ、大いに踊れ。
 娘エルサレムよ、歓呼の声をあげよ。
 見よ、あなたの王が来る。
 彼は神に従い、勝利を与えられた者
 高ぶることなく、ろばに乗って来る
 雌ろばの子であるろばに乗って。
 わたしはエフライムから戦車を
 エルサレムから軍馬を絶つ。
 戦いの弓は絶たれ
 諸国の民に平和が告げられる。
 彼の支配は海から海へ
 大河から地の果てにまで及ぶ。
 
○創世記 22章07~12節
 イサクは父アブラハムに、「わたしのお父さん」と呼びかけた。彼が、「ここにいる。わたしの子よ」と答えると、イサクは言った。「火と薪はここにありますが、焼き尽くす献げ物にする小羊はどこにいるのですか。」アブラハムは答えた。「わたしの子よ、焼き尽くす献げ物の小羊はきっと神が備えてくださる。」二人は一緒に歩いて行った。神が命じられた場所に着くと、アブラハムはそこに祭壇を築き、薪を並べ、息子イサクを縛って祭壇の薪の上に載せた。そしてアブラハムは、手を伸ばして刃物を取り、息子を屠ろうとした。そのとき、天から主の御使いが、「アブラハム、アブラハム」と呼びかけた。彼が、「はい」と答えると、御使いは言った。「その子に手を下すな。何もしてはならない。あなたが神を畏れる者であることが、今、分かったからだ。あなたは、自分の独り子である息子すら、わたしにささげることを惜しまなかった。」

○ヨハネによる福音書 18章33~40節
 こで、ピラトはもう一度官邸に入り、イエスを呼び出して、「お前がユダヤ人の王なのか」と言った。イエスはお答えになった。「あなたは自分の考えで、そう言うのですか。それとも、ほかの者がわたしについて、あなたにそう言ったのですか。」ピラトは言い返した。「わたしはユダヤ人なのか。お前の同胞や祭司長たちが、お前をわたしに引き渡したのだ。いったい何をしたのか。」イエスはお答えになった。「わたしの国は、この世には属していない。もし、わたしの国がこの世に属していれば、わたしがユダヤ人に引き渡されないように、部下が戦ったことだろう。しかし、実際、わたしの国はこの世には属していない。」そこでピラトが、「それでは、やはり王なのか」と言うと、イエスはお答えになった。「わたしが王だとは、あなたが言っていることです。わたしは真理について証しをするために生まれ、そのためにこの世に来た。真理に属する人は皆、わたしの声を聞く。」ピラトは言った。「真理とは何か。」
 ピラトは、こう言ってからもう一度、ユダヤ人たちの前に出て来て言った。「わたしはあの男に何の罪も見いだせない。ところで、過越祭にはだれか一人をあなたたちに釈放するのが慣例になっている。あのユダヤ人の王を釈放してほしいか。」すると、彼らは、「その男ではない。バラバを」と大声で言い返した。バラバは強盗であった。

○イザヤ書 55章01~04節
 渇きを覚えている者は皆、水のところに来るがよい。
 銀を持たない者も来るがよい。
 穀物を求めて、食べよ。
 来て、銀を払うことなく穀物を求め
 価を払うことなく、ぶどう酒と乳を得よ。
 なぜ、糧にならぬもののために銀を量って払い
 飢えを満たさぬもののために労するのか。
 わたしに聞き従えば
 良いものを食べることができる。
 あなたたちの魂はその豊かさを楽しむであろう。
 耳を傾けて聞き、わたしのもとに来るがよい。
 聞き従って、魂に命を得よ。
 わたしはあなたたちととこしえの契約を結ぶ。
 ダビデに約束した真実の慈しみのゆえに。
 見よ
 かつてわたしは彼を立てて諸国民への証人とし
 諸国民の指導者、統治者とした。

○ヨハネによる福音書 20章11~17節
 マリアは墓の外に立って泣いていた。泣きながら身をかがめて墓の中を見ると、イエスの遺体の置いてあった所に、白い衣を着た二人の天使が見えた。一人は頭の方に、もう一人は足の方に座っていた。天使たちが、「婦人よ、なぜ泣いているのか」と言うと、マリアは言った。「わたしの主が取り去られました。どこに置かれているのか、わたしには分かりません。」こう言いながら後ろを振り向くと、イエスの立っておられるのが見えた。しかし、それがイエスだとは分からなかった。イエスは言われた。「婦人よ、なぜ泣いているのか。だれを捜しているのか。」マリアは、園丁だと思って言った。「あなたがあの方を運び去ったのでしたら、どこに置いたのか教えてください。わたしが、あの方を引き取ります。」イエスが、「マリア」と言われると、彼女は振り向いて、ヘブライ語で、「ラボニ」と言った。「先生」という意味である。イエスは言われた。「わたしにすがりつくのはよしなさい。まだ父のもとへ上っていないのだから。わたしの兄弟たちのところへ行って、こう言いなさい。『わたしの父であり、あなたがたの父である方、また、わたしの神であり、あなたがたの神である方のところへわたしは上る』と。」

○出エジプト記 15章01~05節
 モーセとイスラエルの民は主を賛美してこの歌をうたった。
 主に向かってわたしは歌おう。
 主は大いなる威光を現し
 馬と乗り手を海に投げ込まれた。
 主はわたしの力、わたしの歌
 主はわたしの救いとなってくださった。
 この方こそわたしの神。わたしは彼をたたえる。
 わたしの父の神、わたしは彼をあがめる。
 主こそいくさびと、その名は主。
 主はファラオの戦車と軍勢を海に投げ込み
 えり抜きの戦士は葦の海に沈んだ。
 深淵が彼らを覆い
 彼らは深い底に石のように沈んだ。
 
○ヨハネによる福音書 20章24~29節
 十二人の一人でディディモと呼ばれるトマスは、イエスが来られたとき、彼らと一緒にいなかった。そこで、ほかの弟子たちが、「わたしたちは主を見た」と言うと、トマスは言った。「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。」さて八日の後、弟子たちはまた家の中におり、トマスも一緒にいた。戸にはみな鍵がかけてあったのに、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。それから、トマスに言われた。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」トマスは答えて、「わたしの主、わたしの神よ」と言った。イエスはトマスに言われた。「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。」
 
○イザヤ書 61章01節
 主はわたしに油を注ぎ
 主なる神の霊がわたしをとらえた。
 わたしを遣わして
 貧しい人に良い知らせを伝えさせるために。
 打ち砕かれた心を包み
 捕らわれ人には自由を
 つながれている人には解放を告知させるために。

○ヨハネによる福音書 21章01-08節
 その後、イエスはティベリアス湖畔で、また弟子たちに御自身を現された。その次第はこうである。シモン・ペトロ、ディディモと呼ばれるトマス、ガリラヤのカナ出身のナタナエル、ゼベダイの子たち、それに、ほかの二人の弟子が一緒にいた。シモン・ペトロが、「わたしは漁に行く」と言うと、彼らは、「わたしたちも一緒に行こう」と言った。彼らは出て行って、舟に乗り込んだ。しかし、その夜は何もとれなかった。既に夜が明けたころ、イエスが岸に立っておられた。だが、弟子たちは、それがイエスだとは分からなかった。イエスが、「子たちよ、何か食べる物があるか」と言われると、彼らは、「ありません」と答えた。イエスは言われた。「舟の右側に網を打ちなさい。そうすればとれるはずだ。」そこで、網を打ってみると、魚があまり多くて、もはや網を引き上げることができなかった。イエスの愛しておられたあの弟子がペトロに、「主だ」と言った。シモン・ペトロは「主だ」と聞くと、裸同然だったので、上着をまとって湖に飛び込んだ。ほかの弟子たちは魚のかかった網を引いて、舟で戻って来た。陸から二百ペキスばかりしか離れていなかったのである。

出所:聖書日課編集委員会編集「日毎の糧2020」(日本キリスト教団出版局、2019年12月1日発行)より作成

2020年度 年間行事

時刻集会・行事
1210:30イースター合同礼拝
3110:30ペンテコステ礼拝
1410:30花の日合同礼拝
2010:30敬老・子ども祝福合同礼拝
1110:30召天者記念礼拝
1114:00墓前礼拝(於:京葉霊園)
112210:30教会創立記念礼拝
122010:30クリスマス合同礼拝
122417:00クリスマス・イブ礼拝
1225午後子どもクリスマス会

2020年3月22日「仕えるために」

○金 南錫牧師 マルコによる福音書10章32-45節

 福音書には、イエス様ご自身が三度にわたって受難を予告し、その都度弟子たちから理解されなかった様子が記されています。
 一回目の受難予告は、マルコによる福音書8章31節以下です。このときは、イエス様の口から受難予告が語られると、弟子のペトロがそんなことがあってはならないとイエス様をいさめ、その態度をイエス様が叱りつけるという場面があります。
 二つ目は、9章30節以下です。ここでは、弟子たちはイエス様の言葉の意味が分からず、しかも怖くて尋ねられなかったと記されています。
 そして、今日の箇所が三回目となりますが、弟子たちはイエス様の死に対して、なかなか理解できませんでした。特に、弟子たちの中でも重要な位置を占めるヤコブとヨハネは、イエス様が栄光を受けるとき、自分たちに特別な地位を与えてほしいと願ったのです(37節)。
 しかし、二人が思い描いていたイエス様が栄光を受けるときとは、イエス様が神の子であることが明らかになるときです。ところが、イエス様にとっては、それは十字架に付けられるときでした。
 二人は、自分自身の望む救い主を求める中で、十字架なしの栄光を求めていたのです。そこで、ほかの10人の弟子たちは、ヤコブとヨハネがこっそりイエス様に頼みにいったことで腹を立てました。彼らの中にも偉くなりたいという求めがあったのです。
 42節に「そこで、イエスは一同を呼び寄せて言われた」とあります。一同を呼び寄せたのは、一同が皆イエス様を真に理解していなかったからです。
 今朝も、イエス様は私たちを「呼び寄せて」くださり、ご自分が十字架に付けられた意味を示してくださるのです。
 「あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい。」

2020年3月15日「あなたに欠けているもの」

○金 南錫牧師 マルコによる福音書10章17-31節

 たくさんの財産を持っているある人がいました。マタイによる福音書では「金持ちの青年」、ルカによる福音書では「金持ちの議員」と紹介されています。
 この青年は、子供の時から神の掟を守って来ました。しかし、何か心の中に、掟を守っていても、満たされないものがありました。そして、イエス様に「善い先生、永遠の命を受け継ぐには、何をすればよいでしょうか」と尋ねたのです。
 この青年は神様の救いにあずかるには、何をすればよいでしょうか、と聞いているわけです。イエス様はこの人を慈しみに満ちた眼差しで見詰めながら、「あなたに欠けているものが一つある。行って持っている物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい」と語りかけたのです。この言葉は、彼のこれまでの生き方を根本からひっくり返すようなことでした。
 22節に「その人はこの言葉に気を落とし、悲しみながら立ち去った。たくさんの財産を持っていたからである」とあります。
 この金持ちの青年の根本問題は、主のために自分をいかに用いるか、であります。財産そのものは惡ではないのです。いかに用いるかによって、その人の生き様が変わってまいります。そのような営みの中で、天に富を積む生き方、主のために、教会のために、自分の時間や能力、そして自分の宝を用いることの大切さを、私たちは大事にしていきたいと思っています。
 クリスチャンは、この世においても、天においても、永遠の命を受け継ぐ約束が与えられています。永遠の命は、イエス様との命のつながりであります。そのために、私たちが日々の生活の中にいかに、主に従って生きていくのか、それが私たちに欠けている信仰の課題の一つです。

2020年3月8日「子どものように」

○金 南錫牧師 マルコによる福音書10章13-16節

 本日の聖書箇所は、幼児洗礼や子ども祝福のときに、よく読まれるところです。初めに、「イエスに触れていただくために、人々が子どもたちを連れて来た」とあります。
 親であれば、誰しも子どもの健やかな成長を願います。ですから、親たちが子どもたちをイエス様のところに連れて来たのは、子どもの健やかな成長を願い、イエス様に祝福の祈りをしてもらうと、思ったからです。
 ところが、「弟子たちはこの人々を叱った」とあります。どうしてでしょうか。おそらく、群衆に囲まれて忙しいイエス様に弟子たちは気を遣い、子どもたちが来て、邪魔になることを恐れ止めようとしたわけです。
 イエス様はそのような弟子たちの態度を見て、憤られました。そして、弟子たちに「子供たちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものだ。はっきり言っておく。子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない」とおっしゃいました。
 イエス様は、弟子たちと神の国を繋げて考えておられます。当時のイスラエル社会において、律法を守ることがまだできない子どもは、一人前の人間として受け入れられてはいませんでした。さらに、子どもは人数を数えるときの対象にはされていませんでした。
 そのような中で、イエス様が語られた御言葉は、当時の人たちにとって、どれほど驚くべき言葉だったのでしょう。それは神の国とは、子どものように律法を守ることが出来ないでいる者たちのものだとおっしゃったからです。
 当時のイスラエルの人たちの多くは、律法を懸命に守れば、神様は自分を神の国に入れてくださる。いわば「条件付きの世界」を生きていました。ところが、自分に高い条件を課す人ほど、その条件を満たすことができない自分を見出すこととなります。昔も今も多くの人たちは、この「条件付き」の世界を生きる中で、自分の価値を見出そうとしますが、なかなかうまく行かなくて、苦しんでいる人々が多くいます。
 自分自身に価値を見いだすことができないとき、私たちは心の渇きを覚えます。しかし、イエス様は、律法を守ることができない子どもたちをあるがままに受け止めてくださいました。「子どもを抱き上げ、手を置いて祝福された」のです。

2020年3月1日「神が結び合わせたもの」

○金 南錫牧師 マルコによる福音書10章1-12節

 1節に「ヨルダン川の向こう側」とは、ヨルダン川の東側を意味し、当時のペレア地方を指すものです。当時このペレアはガリラヤ地方と同じく、ヘロデ・アンティパスが支配する地域でした。本日の箇所に語られていることも、このペレアで、つまりヘロデの支配下で起ったと考えることに意味があります。
 というのは、本日の箇所の主題である離婚、離縁の問題は、ヘロデの支配の下では触れてはならないタブーとされていたからです。ヘロデは、自分の兄弟フィリポの妻であったヘロディアを、フィリポと別れさせて結婚したのです。そのことを厳しく批判したのが、洗礼者ヨハネでした。
 彼は「自分の兄弟の妻と結婚することは、律法で許されていない」と非難した結果、牢獄に入れられ、首を打ち落とされて殺されたのです。ですから、ヘロデの支配下で公にこの問題に触れることは、このように死を招きかねないことだったのです。そのペレアで、ファリサイ派の人々が近寄って、「イエスを試そうとした」のです。
 彼らはイエス様に問いかけました。「夫が妻を離縁することは、律法に適っているでしょうか」。この問いに対して、イエス様は直接に答えることをしないで、「モーセはあなたたちに何と命じたか」と問い返されました。律法ではなんと言っているかということを、彼らに答えさせたのです。
 彼らは「モーセは、離縁状を書いて離縁することを許しました」と、申命記24章1節の「人が妻をめとり、その夫となってから、妻に何か恥ずべきことを見いだし、気に入らなくなったときは、離縁状を書いて彼女の手に渡し、家を去らせる」という律法の一つを用いて答えました。
 しかしイエス様は、「天地創造の初めから、神は人を男と女とにお造りになった。それゆえ、人は父母を離れてその妻と結ばれ、二人は一体となる。従って、神が結び合わせてくださったものを、人は離してはならない」と、語られたのです。
 ここで、イエス様が強調しておられることは、男女平等の考えなのです。「結び合わせてくださった」というのは、「共に軛を繋いでくださった」という意味にもなります。共に軛を負い合って、一つとなって生きることが、両者に開かれている道だったのです。

2020年3月の主日聖書日課から

○出エジプト記 17章 03~06節
 しかし、民は喉が渇いてしかたないので、モーセに向かって不平を述べた。「なぜ、我々をエジプトから導き上ったのか。わたしも子供たちも、家畜までも渇きで殺すためなのか。」モーセは主に、「わたしはこの民をどうすればよいのですか。彼らは今にも、わたしを石で打ち殺そうとしています」と叫ぶと、主はモーセに言われた。「イスラエルの長老数名を伴い、民の前を進め。また、ナイル川を打った杖を持って行くがよい。見よ、わたしはホレブの岩の上であなたの前に立つ。あなたはその岩を打て。そこから水が出て、民は飲むことができる。」モーセは、イスラエルの長老たちの目の前でそのとおりにした。
 
○マタイによる福音書 04章01~04節
 さて、イエスは悪魔から誘惑を受けるため、“霊”に導かれて荒れ野に行かれた。そして四十日間、昼も夜も断食した後、空腹を覚えられた。すると、誘惑する者が来て、イエスに言った。「神の子なら、これらの石がパンになるように命じたらどうだ。」イエスはお答えになった。
 「『人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』
 と書いてある。」

○列王記下 06章15~17節
 神の人の召し使いが朝早く起きて外に出てみると、軍馬や戦車を持った軍隊が町を包囲していた。従者は言った。「ああ、御主人よ、どうすればいいのですか。」するとエリシャは、「恐れてはならない。わたしたちと共にいる者の方が、彼らと共にいる者より多い」と言って、主に祈り、「主よ、彼の目を開いて見えるようにしてください」と願った。主が従者の目を開かれたので、彼は火の馬と戦車がエリシャを囲んで山に満ちているのを見た。
 
○ヨハネによる福音書 09章28~33節
 そこで、彼らはののしって言った。「お前はあの者の弟子だが、我々はモーセの弟子だ。我々は、神がモーセに語られたことは知っているが、あの者がどこから来たのかは知らない。」彼は答えて言った。「あの方がどこから来られたか、あなたがたがご存じないとは、実に不思議です。あの方は、わたしの目を開けてくださったのに。神は罪人の言うことはお聞きにならないと、わたしたちは承知しています。しかし、神をあがめ、その御心を行う人の言うことは、お聞きになります。生まれつき目が見えなかった者の目を開けた人がいるということなど、これまで一度も聞いたことがありません。あの方が神のもとから来られたのでなければ、何もおできにならなかったはずです。」

○ヨシュア記 24章14~15節
 あなたたちはだから、主を畏れ、真心を込め真実をもって彼に仕え、あなたたちの先祖が川の向こう側やエジプトで仕えていた神々を除き去って、主に仕えなさい。もし主に仕えたくないというならば、川の向こう側にいたあなたたちの先祖が仕えていた神々でも、あるいは今、あなたたちが住んでいる土地のアモリ人の神々でも、仕えたいと思うものを、今日、自分で選びなさい。ただし、わたしとわたしの家は主に仕えます。」

○ヨハネによる福音書 06章66~69節
 このために、弟子たちの多くが離れ去り、もはやイエスと共に歩まなくなった。そこで、イエスは十二人に、「あなたがたも離れて行きたいか」と言われた。シモン・ペトロが答えた。「主よ、わたしたちはだれのところへ行きましょうか。あなたは永遠の命の言葉を持っておられます。あなたこそ神の聖者であると、わたしたちは信じ、また知っています。」

○サムエル記上 09章27節~10章1節
 町外れまで下って来ると、サムエルはサウルに言った。「従者に、我々より先に行くよう命じ、あなたはしばらくここにいてください。神の言葉をあなたにお聞かせします。」従者は先に行った。サムエルは油の壺を取り、サウルの頭に油を注ぎ、彼に口づけして、言った。「主があなたに油を注ぎ、御自分の嗣業の民の指導者とされたのです。

○ヨハネによる福音書 12章05~08節
 「なぜ、この香油を三百デナリオンで売って、貧しい人々に施さなかったのか。」彼がこう言ったのは、貧しい人々のことを心にかけていたからではない。彼は盗人であって、金入れを預かっていながら、その中身をごまかしていたからである。イエスは言われた。「この人のするままにさせておきなさい。わたしの葬りの日のために、それを取って置いたのだから。貧しい人々はいつもあなたがたと一緒にいるが、わたしはいつも一緒にいるわけではない。」

○イザヤ書 63章07~09節
 わたしは心に留める、主の慈しみと主の栄誉を
 主がわたしたちに賜ったすべてのことを
 主がイスラエルの家に賜った多くの恵み
 憐れみと豊かな慈しみを。
 主は言われた
 彼らはわたしの民、偽りのない子らである、と。
 そして主は彼らの救い主となられた。
 彼らの苦難を常に御自分の苦難とし
 御前に仕える御使いによって彼らを救い
 愛と憐れみをもって彼らを贖い
 昔から常に
 彼らを負い、彼らを担ってくださった。

○ヨハネによる福音書 12章23~26節
 イエスはこうお答えになった。「人の子が栄光を受ける時が来た。はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。自分の命を愛する者は、それを失うが、この世で自分の命を憎む人は、それを保って永遠の命に至る。わたしに仕えようとする者は、わたしに従え。そうすれば、わたしのいるところに、わたしに仕える者もいることになる。わたしに仕える者がいれば、父はその人を大切にしてくださる。」

出所:聖書日課編集委員会編集「日毎の糧2020」(日本キリスト教団出版局、2019年12月1日発行)より作成

2020年2月23日「あなたはキリストの味方か」

○金 南錫牧師 マルコによる福音書9章38-50節

 イエス様の名前を使って、悪霊を追い出していた人がいました。その人はイエス様の12弟子ではありませんでした。弟子のヨハネは、私たちに従わないので、やめさせようとしました。
 問題は、自分に従わない人の業をやめさせようとしたヨハネの態度にあります。そこには自分たちこそ、イエス様の特別な弟子集団だという意識があったのです。それゆえに、自分たちが正しくて、ほかは間違っているという考え方を持っていたのです。
 イエス様は弟子たちの問題を見抜いておられ、「わたしたちに逆らわない者は、わたしたちの味方なのである」とおっしゃいました(40節)。
 さらに、イエス様は一杯の水を飲ませてくれる者は、その報いを受けると語っておられます。たとえ今その人があなたに一杯の水を飲ませてくれる者でなかったとしても、明日はあなたに一杯の水を飲ませてくれる者に変わり、その人が主の報いを受ける人に変わる可能性はあり得るのです。ですから、私たちは自分に従う者を味方とし、そうでない者を敵視する思いを悔い改めなければなりません。
 私たちの心が、イエス・キリストにある信仰の世界に変えられることを、祈り願います。

2020年2月16日「誰がいちばん偉いか」

○金 南錫牧師 マルコによる福音書9章30-37節

 本日の聖書箇所は、イエス様と弟子たちがガリラヤ地方を通って、カファルナウムにやってくるまでの話です。その途上でイエス様は弟子たちに「人の子は、人々の手に引き渡され、殺される。殺されて三日の後に復活する」という二度目の受難予告をされました。
 しかし、イエス様が十字架の死と復活について予告されたとき、弟子たちは理解できず、また理解しようとして、尋ねることさえしませんでした(32節)。むしろ弟子たちの関心事は十字架の道とは正反対で、「誰が一番偉いか」ということでした。
 イエス様は、弟子たちを呼び寄せて言われました。「いちばん先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい」 (35節)。
 神の御前で、一番の人は、すべての人に仕える最後の人だと、イエス様は語られました。このイエス様の御言葉に対して、生きる準備があるかどうかが、問われていたのです。
 イエス様はすべての人に仕えるために来てくださいました。そして、この私のために十字架にかかり、死んでくださったのです。ここにまことの偉さが示されているのです。

2020年2月9日「祈りによらなければ」

○金 南錫牧師 マルコによる福音書9章14-29節

 悪霊に取りつかれた少年の父親は、イエス様が不在中、山の下に残っていた弟子たちに、子供の癒しをお願いしましたが、できませんでした。少年は幼いころから、耳が聞こえず、ものが言えませんでした。
 イエス様は父親に病気の子どもを御許に連れてくるように、言われました。少年がイエス様の御許に連れて来られたとき、発作が起きました。
 イエス様はその様子を見て父親に、「このようになったのは、いつごろからか」を尋ねました。父親は「幼い時からです」と答え、「霊は息子を殺そうとして、もう何度も火の中や水の中に投げ込みました。おできになるなら、わたしどもを憐れんでお助けください」と言ったのです。
 イエス様が少年の手を取って起こされると、立ち上がりました。そして、「この種のものは、祈りによらなければ決して追い出すことはできないのだ」と言われたのです(29)。
 人生は、思うようにいかないことのほうが多いのですが、その中で、辛いことを心の中に押さえ込んで、押し隠すのではなく、私たちのすべてをご存じである神様に、重荷のすべてを隠さず述べて、心を注ぎ出して、祈る者でありたいです。