2019年10月6日「信仰とつまずき」

○金 南錫牧師 マルコによる福音書6章1-6a節

 イエス様はカファルナウムを去って、故郷に来られましたが、故郷のナザレではイエス様は受け入れられませんでした。4節に「イエスは、『預言者が敬われないのは、自分の故郷、親戚や家族の間だけである』と言われた。」とある通りです。
 ナザレの人たちは「この人は、このようなことをどこから得たのだろう。この人が授かった知恵と、その手で行われるこのような奇跡はいったい何か。」というふうに、イエス様に対する驚きや好奇心がありました。ところが、それ以上のことを求めませんでした。ですから、イエス様への信仰にはつながりませんでした。これは、ナザレの地にある悲劇です。
 また、ナザレの人々は「この人は、大工ではないか」という先入観にとらわれてしまって、イエス様から神の言葉を聞くことができませんでした。イエス様はそのナザレにおいては「ごくわずかの病人を癒しただけで、そのほかは何も奇跡を行うことがおできにならなかった」のです。すなわち、信仰抜きには何も起こらない、ということです。

2019年9月29日「タリタ、クム」

○金 南錫牧師 マルコによる福音書5章21-43節

 当時のイスラエルの社会では、出血をしている女性は汚れものとされ、他人との接触が禁じられていました。十二年間も出血の止まらない女は、十二年間も、そのような生活を強いられていたのです。彼女は、イエス様がお通りになると聞いて、「この方の服にでも触れればいやしていただける」と思って、藁をもつかむ思いで、群衆の中に紛れ込み、イエス様の服に後ろから触れたのです。
 すると、「すぐ出血が全く止まって病気がいやされたことを体に感じた」のです。イエス様は、自分の内から力が出て行ったことを気づいて、群衆の中で振り返り、「わたしの服に触れたのはだれか」と言われました。つまり、イエス様は、彼女のすべてのことをご存じの上で、この女が後ろからではなく、真っ正面から、主イエスと出会う機会を与えようとして、足をとどめられたのです。
 癒されたその女はあまりにも驚いて、震えながら進み出てひれ伏し、すべてをありのまま話しました。イエス様は彼女の告白に対して、こう言われました。「娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。もうその病気にかからず、元気に暮らしなさい」。
 イエス様は、彼女の藁をもつかむ信仰をそのままに、救いに値する信仰と受け入れてくださったのです。そして、「安心して行きなさい」と再び祝福をもって派遣してくださったのです。

2019年9月22日「墓場から家への恵み」

○金 南錫牧師 マルコによる福音書5章1-20節

 汚れた霊に取りつかれた人はイエス様を遠くから見ると、走り寄ってひれ伏し、大声で叫びました。「いと高き神の子イエス、かまわないでくれ。後生だから、苦しめないでほしい」(7節)。イエス様はこの人を深く憐れんでくださり、「汚れた霊、この人から出て行け」と追い出し、彼を病から解放してくださいました(8節)。
 しかし、汚れた霊たちは新しい居場所を求めて、豚の中に入ります。すると、二千匹ほどの豚の群れが一斉に駆け出し崖を下って、湖になだれ込み、湖の中で次々とおぼれ死んでしまうのです(13節)。
 一方で、汚れた霊たちに取りつかれた人は「服を着、正気になって座っている」と記されています(15節)。この人はイエス様によって、多くの汚れた霊に支配された混沌とした状態から解放されたのです。その後、彼は神に救われたものとして、平安の内に自分の家に帰ります。まさに、墓場から家へと遣わされた逆転の人生を与えられたのです。20節に「その人は立ち去り、イエスが自分にしてくださったことをことごとくデカポリス地方に言い広め始めた」とあります。
 私たちも主の恵みを受けた者です。その受けた恵みを、他ではないこの佐倉という場において、私たちの足元から言い広めていきたいものです。

2019年10月の主日聖書日課から

○ルカによる福音書 16章08節~11節
 主人は、この不正な管理人の抜け目のないやり方をほめた。この世の子らは、自分の仲間に対して、光の子らよりも賢くふるまっている。そこで、わたしは言っておくが、不正にまみれた富で友達を作りなさい。そうしておけば、金がなくなったとき、あなたがたは永遠の住まいに迎え入れてもらえる。ごく小さな事に忠実な者は、大きな事にも忠実である。ごく小さな事に不忠実な者は、大きな事にも不忠実である。だから、不正にまみれた富について忠実でなければ、だれがあなたがたに本当に価値あるものを任せるだろうか。
 
○ルカによる福音書 16章27節~31節
 金持ちは言った。『父よ、ではお願いです。わたしの父親の家にラザロを遣わしてください。わたしには兄弟が五人います。あの者たちまで、こんな苦しい場所に来ることのないように、よく言い聞かせてください。』しかし、アブラハムは言った。『お前の兄弟たちにはモーセと預言者がいる。彼らに耳を傾けるがよい。』金持ちは言った。『いいえ、父アブラハムよ、もし、死んだ者の中からだれかが兄弟のところに行ってやれば、悔い改めるでしょう。』アブラハムは言った。『もし、モーセと預言者に耳を傾けないのなら、たとえ死者の中から生き返る者があっても、その言うことを聞き入れはしないだろう。』」
 
○士師記 07章02節~07節
 主はギデオンに言われた。「あなたの率いる民は多すぎるので、ミディアン人をその手に渡すわけにはいかない。渡せば、イスラエルはわたしに向かって心がおごり、自分の手で救いを勝ち取ったと言うであろう。それゆえ今、民にこう呼びかけて聞かせよ。恐れおののいている者は皆帰り、ギレアドの山を去れ、と。」こうして民の中から二万二千人が帰り、一万人が残った。主はギデオンに言われた。「民はまだ多すぎる。彼らを連れて水辺に下れ。そこで、あなたのために彼らをえり分けることにする。あなたと共に行くべきだとわたしが告げる者はあなたと共に行き、あなたと共に行くべきではないと告げる者は行かせてはならない。」彼は民を連れて水辺に下った。主はギデオンに言われた。「犬のように舌で水をなめる者、すなわち膝をついてかがんで水を飲む者はすべて別にしなさい。」水を手にすくってすすった者の数は三百人であった。他の民は皆膝をついてかがんで水を飲んだ。主はギデオンに言われた。「手から水をすすった三百人をもって、わたしはあなたたちを救い、ミディアン人をあなたの手に渡そう。他の民はそれぞれ自分の所に帰しなさい。」
 
○創世記 01章01節~05節
 初めに、神は天地を創造された。地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。神は言われた。「光あれ。」こうして、光があった。神は光を見て、良しとされた。神は光と闇を分け、光を昼と呼び、闇を夜と呼ばれた。夕べがあり、朝があった。第一の日である。
 
○ヨハネによる福音書 01章01節~05節
 初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は、初めに神と共にあった。万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。
 
出所:聖書日課編集委員会編集「日毎の糧2019」(日本キリスト教団出版局、2018年12月1日発行)より作成

2019年9月15日 敬老・子ども祝福合同礼拝

 2019年9月15日、敬老・子ども祝福合同礼拝を行いました。
 高齢の兄弟姉妹、子どもたちのために礼拝において祝福の祈りを行いました。
 婦人会は、この日のために練習を重ねてきた特別賛美の奉仕をしてくださいました。

子どもたちのために祝福を祈ります

 

高齢者の方々のために祝福を祈ります

 

婦人会による特別賛美です

2019年9月15日「流れのほとりに植えられた木」

○金 南錫牧師
 詩編1編1-3節
 
 流れのほとりに植えられた木のような人生になったとき、ときが巡り来れば実を結び、葉もしおれることがなく、その人のすることはすべて、繁栄をもたらすことになります(3節)。では、私たちはどうやって流れのほとりに植えられた人生を生きることができるのでしょうか。
 2節に「主の教えを愛し、その教えを昼も夜も口ずさむ人」とあります。流れのほとりに植えられた人生の秘訣は、「主の教え」、即ち「神の言葉」にあるのです。御言葉を愛し、喜ぶのです。そして、その御言葉を昼も夜も口ずさむのです。
 繰り返し声を出して、御言葉を思い出し、黙想します。とくに、困難に置かれたとき、御言葉を繰り返して口ずさむことによって、心が少しずつ変わっていきます。不安の心が平安になっていきます。暗い顔が明るくなっていきます。また、御言葉から恵みと力をいただくことになります。

2019年9月1日「激しい突風の中で」

○金 南錫牧師
 マルコによる福音書4章35-45節
 
 本日の聖書箇所には、イエス様の一行が激しい突風に遭ったときの出来事です。夕方になるとイエス様は、「向こう岸に渡ろう」と弟子たちに言われました。そこで「弟子たちは群衆を後に残し、イエスを舟に乗せたまま漕ぎ出し」ました(36)。ところが、そこで思いがけないことが起こりました。激しい突風が吹き始めたのです。舟は波をかぶって、水浸しになるほどでした(37)。嵐の中、弟子たちは必死に舟の中の水をかき出しましたが、舟は沈みそうになりました。
 なすすべもない弟子たちは、艫の方で何もしないで眠っておられるイエス様を起こして、「先生、私たちがおぼれてもかまわないのですか」と、非難ともとれる言葉を投げつけたのです。しかし、イエス様は不信仰な弟子たちの叫びに応えて、嵐を静められたのです。
 そして、40節に「イエスは言われた。『なぜ怖がるのか。まだ信じないのか。』」となっています。つまり、イエス様は、弟子たちの不信仰を戒められる前に、不信仰な者の祈りに応えてくださったのです。どんな不信仰な祈りであっても、私たちが祈り始める時、その祈りは聞かれ始めるのです。嵐の中にあっても、私たちと共におられ、私たちの祈りを聞いてくださる主イエスにすべてを委ねていくことができますように、祈り願います。

2019年9月の主日聖書日課から

○アモス書 05章21節~24節
 わたしはお前たちの祭りを憎み、退ける。
 祭りの献げ物の香りも喜ばない。
 たとえ、焼き尽くす献げ物をわたしにささげても
 穀物の献げ物をささげても
 わたしは受け入れず
 肥えた動物の献げ物も顧みない。
 お前たちの騒がしい歌をわたしから遠ざけよ。
 竪琴の音もわたしは聞かない。
 正義を洪水のように
 恵みの業を大河のように
 尽きることなく流れさせよ。

○ルカによる福音書 14章04節~06節
 彼らは黙っていた。すると、イエスは病人の手を取り、病気をいやしてお帰しになった。そして、言われた。「あなたたちの中に、自分の息子か牛が井戸に落ちたら、安息日だからといって、すぐに引き上げてやらない者がいるだろうか。」彼らは、これに対して答えることができなかった。
 
○ルカによる福音書 14章12節~14節
 また、イエスは招いてくれた人にも言われた。「昼食や夕食の会を催すときには、友人も、兄弟も、親類も、近所の金持ちも呼んではならない。その人たちも、あなたを招いてお返しをするかも知れないからである。宴会を催すときには、むしろ、貧しい人、体の不自由な人、足の不自由な人、目の見えない人を招きなさい。そうすれば、その人たちはお返しができないから、あなたは幸いだ。正しい者たちが復活するとき、あなたは報われる。」
 
○ルカによる福音書 14章25節~27節
 大勢の群衆が一緒について来たが、イエスは振り向いて言われた。「もし、だれかがわたしのもとに来るとしても、父、母、妻、子供、兄弟、姉妹を、更に自分の命であろうとも、これを憎まないなら、わたしの弟子ではありえない。自分の十字架を背負ってついて来る者でなければ、だれであれ、わたしの弟子ではありえない。
 
○ルカによる福音書 15章17節~23節
 そこで、彼は我に返って言った。『父のところでは、あんなに大勢の雇い人に、有り余るほどパンがあるのに、わたしはここで飢え死にしそうだ。ここをたち、父のところに行って言おう。「お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。雇い人の一人にしてください」と。』そして、彼はそこをたち、父親のもとに行った。ところが、まだ遠く離れていたのに、父親は息子を見つけて、憐れに思い、走り寄って首を抱き、接吻した。息子は言った。『お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。』しかし、父親は僕たちに言った。『急いでいちばん良い服を持って来て、この子に着せ、手に指輪をはめてやり、足に履物を履かせなさい。それから、肥えた子牛を連れて来て屠りなさい。食べて祝おう。

出所:聖書日課編集委員会編集「日毎の糧2019」(日本キリスト教団出版局、2018年12月1日発行)より作成

2019年8月18日「成長する神の国」

○金 南錫牧師
 マルコによる福音書4章26-34節

 「神の国は次のようなものである。人が土に種を蒔いて、夜昼、寝起きしているうちに、種は芽を出して成長するが、どうしてそうなるのか、その人は知らない」(26、27節)。
 種は土にまかれたときから、どのように成長するのか、すべてが隠されています。イエス様は種が土にまかれたときから、勝手に芽を出し、一人でに実を結ぶと言われます。
 同じように、神の国も神ご自身の業によって、成長していくのです。ですから、私たちは思い煩うことなく、神ご自身が前進させてくださることを信じて待ち望み、すべてをゆだねていく。それが大事なのです。
 しかし、私たちの現実の歩みは、神に支えられ、前に進められているのに、すぐにそれを忘れてしまいます。そして、自分の力に頼ったり、すぐに不安になったりします。種まきから収穫までの期間が隠されているので、その間、不安や戸惑い、また疑いや思い煩いでたまらないのです。
 しかし、私たちには理解できない神様の時があります。今私たちが自分の思いや時の流れを、神の思い、神の時の流れに合流させて見てはいかがでしょうか。
 成長の歩みが遅いとくよくよ悩むことはやめて、実ることができるようにしてくださる神の時の流れに自分のすべてをゆだねていきたいものです。

2019年8月11日「ともし火と秤」

○金 南錫牧師
 マルコによる福音書4章21-25節

 ともし火のたとえは、「神の国」に対するたとえです。21節に「ともし火を持ってくるのは」とありますが、直訳すれば「ともし火がやって来るのは」となります。つまり、神の国は向こうからやって来たのです。
 歴史の中で、御子なる主イエスを通して、目の前に現れたのです。ですから、ともし火は主イエスご自身を指しています。主イエスは、すでに神の国、神のご支配を実現するために、この世に来て下さいました。
 そして、主イエスによって示された「神の国」は、燭台の上に置かれて周囲を照らすともし火と同じように、必ず、あらわになり、公になるのです(22節)。
 教会は、この光を「キリスト」と捉えます。キリストである主イエスはまことの光として、すべての人に生きる力と勇気を与えています。ところが、御言葉や、主イエスが与えてくださった救いの恵みを伝えていくというのは、いつでも相手に喜ばれ感謝されるとは限らないのです。むしろ、無駄なことをしているのではないか、そう思うこともあるのです。
 しかし、主イエスは「持っている人は更に与えられ、持っていない人は持っているものまでも取り上げられる」と告げられます(25節)。これは主イエスの約束です。救いの恵み、信仰が与えられ、それを喜び、伝える者は、更に与えられるのです。