神様が望んでいること 喜び、祈り、感謝の人に

○ぶどうの枝第50号(2019年6月30日発行)に掲載(執筆者:金 南錫牧師)

 テサロニケの信徒への手紙五章一六~一八節

 本日の聖書個所において、神様が私たちに望んでおられることとして、「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい」とあります。そして、これこそ「キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです」とあります。
 ここで、「望んでおられること」とは、神の「ご意志」と訳すことができます。つまり、私たちに対する神のご意志は、「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい」ということです。

 聖霊により時間を超える

 では、私たちがどのようにして、神様が望んでおられる喜びの人、祈る人、感謝の人となることができるでしょうか。
 第一に、私たちが喜びの人になるためには、聖霊によって時間を超えなければなりません。
 一六節に「いつも喜んでいなさい」とあります。「いつも」という言葉は、「どんなときにも、変わることなく」という意味です。人が何かを変わることなく、常に喜ぶことを意識することは容易なことではありません。例えばいつも仕事することは易しいことでしょうか。そうではないです。人は体調不良や、疲れるときがあります。しかし、この喜びにおいてだけは、いつも喜ぶことを、神様は望んでおられるのです。
 それでは、神様はなぜ、「いつも喜びなさい」と命じられるのでしょうか。それは、私たちが主イエスの中にいるとき、主イエスの中で得られる喜びは、時間を超える性格があるからです。ヨハネによる福音書七章三七節以下を見ますと、「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる。イエスは、御自分を信じる人々が受けようとしている『霊』について言われたのである」とあります。
 クリスチャンは、その内から生きた水が川となって流れ出るようになると語っています。小さな川が流れるところに行ってみると、石に苔があります。ところが、大雨が降って川の水が流れ出ると、完全に奇麗になります。同じように、私たちの心の中にどれほどの欲望や心配、世の苔があったとしても、聖霊による生きた水が川となって流れ出ると、時間を超えて、いつも喜ぶができる、その喜びが私たちの中にあふれ出るということです。聖霊に満たされると、失敗のときも、誘惑のときもいつも喜ぶことができます。時間を超えて、いつも喜ぶことができるようになるのです。

 御言葉に従う

 祈りの人となるためには、御言葉に従うことによって、感情を超えなければなりません。一八節に「絶えず祈りなさい」とあります。休まずに祈りなさいという意味です。ところが、私たちは祈る生活をしながらも、祈りを休むことがあります。それは、落胆という感情が私たちの心の中を支配してしまうからです。望んでいることが叶わなかったとき、落胆するようになるのです。
 ですから、イエス様は、ルカによる福音書一八章一節において「気を落とさずに絶えず祈らなければならない」ことを教えられたのです。感情に基づいた祈りは長続きしません。時計の振り子のように、感情というのは、一日に何回も変わるからです。
 それでは、私たちはどのようにして、感情を超えた祈りの人となることができるのでしょうか。それは、私たちの感情を御言葉に従わせることです。お祈りをしたいとき、祈りをささげることもよいのですが、感情を御言葉に従わせて、意志的に祈ることが大切です。
 「絶えず祈りなさい」という言葉は、神のご意志です。これは、私たちの意志を求める言葉です。落胆するとき、疲れたとき、休みたいときに、お祈りをすることは容易なことではありません。しかし、祈りは感情的な問題ではなく、従順の問題であり、意志の問題です。神のご意志が「絶えず祈りなさい」ということなので、それに従って祈るわけです。
 祈りとは、自然に祈ることができると期待してはいけないと思います。祈ることが自然になって祈ることができるには、相当な努力が必要です。それは、絶え間ない意志的な従順と信仰の決断が必要です。私たちは、御言葉に従うことによって、私たちの意志と私たちの従順を神様にささげ、感情を超える祈りの人となるように祈り願います。

 どんな状況でも感謝する

 第三に、私たちは感謝の人となる必要があります。
 私たちが感謝の人となるためには、キリスト・イエスにおいて、状況を超えなければなりません。一八節に「どんなことにも感謝しなさい」とあります。ここで、「どんなことにも」というのは、すべてのことを指しています。「すべてのことにおいて、感謝しなさい」というのは、どのような状況に置かれたとしても、すべてのことにおいて、感謝することです。これは、状況を超える感謝を意味します。
 ほとんどの人の感謝は、置かれた状況に基づいた感謝だと思います。また、条件に基づいた感謝です。よい状況には感謝することができます。しかし、状況が悪くなると不平不満が生じます。しかし、神様は、私たちが状況を超えた感謝の人となるように、望んでおらえるのです。
 イギリスのマシュー・ヘンリーという有名な牧師がいました。あるとき、強盗に財布を盗まれました。彼はその日の日記にこう記しています。「今日は感謝な日だった。まずは強盗に遭ったのは初めてであり、今まで守られてきたことを感謝する。次に財布は盗まれたが、命は奪われなかったことに感謝する。さらに全財産を取られたが、盗まれることができない天国が私の中にあったことに感謝する。最後に自分は強盗に遭ったのであって、自分が強盗をしたのではないことに感謝する」。
 感謝は、感謝できるときに感謝することより、感謝することができないときに感謝することが本当の感謝です。感謝の人は「どんなことにも」、どんな状況に置かれても感謝することができるのです。
 神様が私たちに望んでおられること、それは、私たち一人一人が「喜びの人、祈りの人、感謝の人」となることです。そして、私たちの存在そのものが「喜びの人、祈りの人、感謝の人」と変えられること、それが神のご意志です。
 聖霊に満たされて、時間を超えて、喜ぶことができる喜びの人。御言葉に従うことによって、どのような状況に置かれても、感情を超えて祈ることができる祈りの人。そして、置かれた状況を超えて、感謝することができる感謝の人。
 このような人となることが、「キリスト・イエスにおいて、神様が私たちに望んでおられること」です。何よりも私たちの存在そのものが喜びの人、祈りの人、感謝の人となって、それぞれ置かれた場所で、神様の御意志が実現されますようにお祈りします。

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