随想 見つかった迷子の子羊

○ぶどうの枝第55号(2021年12月31日発行)に掲載(執筆者:HK)

 洗礼を受けてから、気が付けば五十年以上たっています。神様の大きな御手に包まれ、守られて信仰を支えられてきたとつくづく思います。
 私の実家ではクリスチャンは母だけでしたが、祖母も父も母の信仰を大事にしてくれ、母は教会中心の生活を送ってきました。幼い頃日曜学校に連れていかれたことはあまり記憶にないのですが、キリスト教、佐倉教会は身近な存在でした。中学生になったとき、ふらっと教会へ行き始めました。同学年の友達四、五人ぐらいで日曜学校が終わった後、礼拝中の会堂の隣の部屋でおしゃべりをしたり、テスト前は勉強したりとお昼頃まで過ごしていました。教会に通っていたというより、友達と遊んでいたという方が正しかったくらいです。
 高校生になっても相変わらずだった私たちは、石川深香子先生から「礼拝に出なさい!」と言われ、後ろの方で小さくなって座っていました。熱心さには程遠い私たちでしたが、教会員の方々の神様に向き合っている姿勢がとても印象に残っています。
 高校卒業後は佐倉に残っていたのは私だけでしたが、教会学校を手伝ったりしながら教会生活を続けていました。二十歳になったとき、石川キク牧師から「浩子ちゃんそろそろいいんじゃない?」との言葉に、なぜか何の疑問もなく当たり前のように「はい」と答えていました。受洗に当たって、いろいろ悩んだ末の決断とか、新たな出発への感動などはなかったけれど、教会員の方々の祝福を受け、あのまっすぐ前を向いている方々の仲間入りをさせていただいたという緊張感は忘れられません。
 結婚して佐倉を離れてからは毎日の生活の忙しさの中、段々教会から遠ざかり、そのうちに聖書を読むことも、祈ることからも離れてしまう時期もあったり、またハッとして戻るの繰り返しでした。
 二十七年ほど前に佐倉に戻ってきて、佐倉教会のあの古い木造の会堂を見て、とても懐かしくうれしかったです。新たな教会生活の出発となりました。それでも自分には強い決断や体験もないままのこんな信仰でいいのかとの思いもありました。
 そんなとき、西千葉教会のグドゥルン・シェーア先生の「捜索願い」という講演がありました。有名な迷子の子羊の例え話です。
 「この羊飼いのように、神様は一人一人の人間を迷子になった子どものように捜しておられる。人間を救うため、イエス・キリストを生きた捜索願いとしてこの世にお遣わしになり、人間を見つけ出し、その罪、神様に対する不平不満を負うて十字架に掛けられた。そしてイエス・キリストの十字架上の死において人間は救われ、完全に神様に見つけられた。イエスキリストに見つけていただき、神様の歓迎パーティーに連れて帰ってもらう」。
 迷子の子羊は私なんだ、イエス様に見つけていただいたんだとの感謝の思いを強くしました。また見つかったことを喜んでくださり、大切に思い、ずっと見守ってくださっている。なんて大きな恵みなんだろう。自分の受けたものに応えていけばいいのかなと、少し吹っ切れたことを覚えています。何事にも時がある、私にはこれだけの時が必要だったとも思いました。
 「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである」(ヨハネによる福音書三章一六、一七節)。
 相変わらず頼りなく迷ってばかりの私ですが、祈りつつ共に歩いてくださるイエス様に従っていきたいと思います。