随想 母との時間 神様からのプレゼント

○ぶどうの枝第60号(2024年6月30日発行)に掲載(執筆者:MO)

 昨年十月に母が亡くなり、千葉に連れてきて我が家で一緒に暮らした部屋をいろんな想いを抱えながら整理しています。暖かくなるのを待って四月に父が待つ霊園に納骨しました。この霊園は日当たりがよく長男である弟の家の方を眺める高台だから気に入っているとまだ父が元気だった頃、帰省した私を連れていき説明され、お墓の日当たりねえ……と思ったことを思い出しました。霊園の近くには賀川豊彦記念館やドイツ人捕虜収容所であったドイツ館もあり、父につながる思い出が多い所でなるほどと納得したものでした。
 納骨すれば気持ちに区切りがつくと思っていましたが逆にいろんな思い出が湧き出てきて部屋の整理も心の整理も全くできなくなりました。今でも部屋のボードに「蒸気船堂浦防潮堤に描く」という新聞の記事が貼ってあります。私の友人が送ってくれた新聞記事で、鳴門市の海辺の町で八十五才まで育った母には懐かしい記事であり、私には蒸気船が定期船として就航していたことを初めて知り驚いた出来事でした。
 母の字で眉山丸、鶴羽丸、と書いてあり、四泊五日、伊勢、京都、奈良、大阪と書いてあります。とてもきれいな字を書く母でしたが、九十才を過ぎてからは指が曲がってしまい字が書けないと悲しんでいました。この船に乗って小学校のときに伊勢、京都などの修学旅行に行ったことや、二〇一八年十二月の『ぶどうの枝』に「転入者より」として書かせていただいた中で、小学校三年生のときに友達に誘われ初めてキリスト教の家庭集会に出席し教会が大好きになり、女学校一年生の十二月八日、太平洋戦争が勃発し家庭集会が中止になるまで、町から船に乗って港に着かれる牧師先生を出迎えていた、その船であることを私は知ることができました。絵を見ることでイメージが湧き、歴史的なことも知り、母が小学生の頃から家庭集会に行っていたことは何も知らなかったので驚きでした。そのことで母が洗礼を受ける下地を持っていたことが理解でき、これは母が父の亡き後、千葉に来てくれなければ分からなかったことでした。
 まだ元気で毎晩電話をかけてきていたとき、話が終わると二人で一緒に「主の祈り」を唱えます。ろれつが回らなくなってからも母は、使徒信条までスラスラ言うので驚くと「言えるよ」と得意な声で言いました。その母の声が心に残っています。
 まだいろんな思いが交錯しますが、母と過ごした千葉での生活は、子供の頃に忙しかった母との時間を埋めてくれた幸せな時間であり、神様からのプレゼントだったと思います。
 体調のこともあり、まだ気持ちの安定が伴わない日々ですが、良き思い出に支えられながら焦らず整えていけたらと願っています。