随想 教会はイエス様を乗せた舟

○ぶどうの枝第61号(2024年12月22日発行)に掲載(執筆者:MO)

 佐倉教会は百二十周年を共に祝う記念礼拝を守ることができました。礼拝後の愛餐会で思い出の写真がスクリーンに映し出され懐かしい方々のお顔があり、その中にTIさんのお顔もありました。
 黒田先生の時代に、「これからの佐倉教会、こんな教会になれば良いな」と佐倉教会の在り方を話し合ったことがありました。礼拝者人数がどんどん増えていた頃で大きな建物が必要との意見が多い中、Iさんが、「器のハード面ばかりに重きを置くのではなく、近い将来高齢化が進み、少子化も必ず問題になる。教会も同じであり、これからの少子高齢化時代を見据えソフト面の対応を考えるべき」と話されたことが思い出されます。私は、四世代八人家族で生活し、主人の祖父母を家族で看取り、人が最後に向う道のりを生活の中で経験していたので、Iさんの意見は当時強く心に残りました。
 現在、正にその状況で不安が大きかったのですが、記念礼拝の何日か前に所用で教会をお訪ねしたら金先生が思い出の写真を四竃さんが持ってきてくださった。と私にも見せてくださいました。そして金先生が思ったよりたくさんの方の出入りがありますね。とおっしゃいました。私も懐かしいお顔を拝見しながら同じことに気が付きました。そしてちょっとだけ、大丈夫かもと漠然と思いました。
 百二十周年記念礼拝は木下宣世先生の説教「どんな時も、主は共に」をお聞きしました。教会は舟であり「板子一枚下は地獄」私は海辺の町で育ちましたので子供の頃から聞いていた言葉でした。教会はいつも順調な時ばかりではない。様々な問題で漕いでも、漕いでも前に進めないような逆風。前にも後ろにも進めない状況。そこにイエス様は湖面を歩いてきてくださり「私だ。恐れることはない。」とおっしゃいました。イエス様は私達には考え付かないような形で来てくださいます。百二十年航海を続けた佐倉教会、様々な問題があったけれど百二十年礼拝を守ることができたのは神様がいてくださった印です。これからの航海も、様々な困難が待ち受けていても、どこからでも駆けつけてくださるイエス様の御言葉を信じて目的地に向かって進んでいける舟であります。
 木下先生の説教により、不安な気持ちは消えて大丈夫。教会はイエス様を乗せた舟として進んでいける。教会員それぞれができることをできるように力を合わせ、金先生を中心に祈りを合わせ進んでいけばよいのだと少し明るい気持ちになりました。