随想 悪筆は「宮本武蔵」のせい

○ぶどうの枝第53号(2020年12月20日発行)に掲載(執筆者:YH)

 父の蔵書の中に、吉川英治氏による『宮本武蔵』の初版本(全六巻)があり、平仮名を覚えた小学校低学年の頃から読み始め(全ての漢字にフリガナが付いていたので、子供でも読めた)、お通とのすれ違いが繰り返される物語が、まさに「君の名は(一九五四年から始まったNHKのラジオ連続放送劇で、これが始まる頃には、銭湯から客が居なくなった)」の様に堂々巡り(子供の感覚では三歩進んで四歩下がる)であったのにいささか立腹したものの、全体的なストーリーが面白かったもので、何度も何度も繰り返して読みました。結果、漢字を「(出来上がった)形」で覚えてしまうことに至り、当然のことながら肝心な筆順を学ぶことはできませんでした。
 小学校の国語の授業で先生が漢字を教えるときに、正しい筆順も黒板に書いてくれましたが、既に多くの漢字は覚えていたため(但し、旧漢字ではあったが)、「そんな漢字はもう知ってるので、別のことしよう」って考え、机の下で版画を彫っていたら、ノミが滑って左手人差し指の根本を切って大出血となり、すぐに近くの医院で三針ほど縫ってもらったりしたこともありました。でも、お陰で国語の成績はいつも良好でした(漢字の試験では形ができていればOKで、筆順はチェックされない)。
 しかしながら、中学生になった頃から「他の同級生たちと比べ、俺の字は汚いなぁ、何故なんだろう」って思い始めた頃、同級生から筆順の違いを指摘され、教えられたとおりに書くと奇麗な字になることに気づいたものの、「膨大な数に上る漢字の筆順を覚え直すのは大変だし、俺の字は汚いけど誰でも読めるが、達筆の人が書いた字は読みにくい。したがって、コミュニケーションのツールとしては、俺の字の方が勝っている」と都合よく考え、改めて筆順を学び直すことはやめました。
 でも、社会人となり、上司に年賀状を出したら、小学生の子供さんから返事が来たりで、いささか情けない思いをしたこともありましたけれども、そのうちにOA化が始まって職場のみならず家庭にもワープロやPCが鎮座する環境となり、誰が文章を作成しても「奇麗に整った文字」で書かれるようになり、私にとっては素晴らしい環境となりました。
 ところが、慶弔の場では自署を求められることが多く、つい、前後に書かれた他の方々の自署を見て、「ありゃ、皆さん上手だなぁ。俺、書きたくないなぁ。子供の頃、キチッと勉強しておけば良かったなぁ」と、今頃になって後悔しています。
 聖書を見ると、全ての漢字にフリガナが付されていますから、もしかしたら私のように漢字をいきなり「形」で覚えてしまう子供が出現するかも知れません。聖書が誰にでも親しく読まれるよう、漢字にフリガナを付すのも良し悪し(善し悪し)です。
 天なる主、御子であられるイエス様、決して聖書を非難している訳ではないことを理解され、お赦しください。