神様と共に歩んだアブラハム 満ち足りた人生への導き 創世記二五章一~一八節

○ぶどうの枝第55号(2021年12月31日発行)に掲載(執筆者:金 南錫牧師)

 創世記一二章から始まるアブラハムの物語の最後です。アブラハムが晩年になって、息子のイサクに妻をめとるために、信頼していた忠実な僕を故郷の町に遣わしました。僕はその町で、アブラハムの親類のリベカという女性に出会って、彼女の家族と交渉して、承諾を得ます。そして、リベカも「はい、まいります」と決心をして、その日のうちに両親の下から離れて、遠いカナンの地に嫁いでいきました。このとき、アブラハムは百四十歳になっていました。今日の箇所には、その後、アブラハムが百七十五歳で召されるまでのことが記されています。
 「アブラハムは、再び妻をめとった。その名はケトラといった」(一節)。
 アブラハムは、妻サラが亡くなった後、ケトラと再婚しました。このケトラとの間に六人の子どもたちが生まれます。そのことが二節から四節に示されています。そして、ケトラとの間に生まれた子孫たちは、やがてアラビア半島に暮らすようになって、後のアラブ人の祖先となっていきます。
 「アブラハムは、全財産をイサクに譲った。側女の子供たちには贈り物を与え、自分が生きている間に、東の方、ケデム地方へ移住させ、息子イサクから遠ざけた」(五~六節)。アブラハムにはサラとの間に、百歳のときに与えられた約束の子イサクがいて、その前にサラの女奴隷であったハガルとの間に、イシュマエルという息子がいました。それに、先ほどのケトラとの間に生まれた六人の子どもたちを含めると、全部で八人の子どもたちがいたわけです。
 アブラハムは約束の子イサクに全財産を譲ったとき、他の七人の子どもたちにも贈り物を与え、彼らに十分な配慮をしました。そして、彼らを東の方に移住させ、イサクから遠ざけました。それは、相続を巡って、兄弟間での争いを避けるためでした。そうしてアブラハムは神様の祝福のバトンをイサクにしっかりと渡しました。

 アブラハムの人生と信仰

 神様は、そのようなアブラハムの人生を大いに祝福されます。
 「アブラハムの生涯は百七十五年であった。アブラハムは長寿を全うして息を引き取り、満ち足りて死に、先祖の列に加えられた」(七~八節)。
 ここで三つのことを考えたいと思います。
 第一に、アブラハムは「満ち足りた」晩年を迎えました。満ち足りた晩年とは、神様との関係において、「満ち足りた」ことです。それまで、アブラハムは神様によって導かれてきて、神様にいつも祈っていました。ですから、アブラハムの人生の晩年においても、いつも神様のことを思い、神様との交わりの中で過ごしていたと思います。そして神様と共にいることを本当に喜んでいたのです。
 第二に、アブラハムは「長寿を全う」しました。「アブラハムの生涯は百七十五年であった」とあります。アブラハムは、七十五歳のときに、神様に召し出されて、それまで暮らしていたカルデアのウルという町を離れて、カナンの地へと旅立ちました。そのとき以来、ちょうど百年間生きたことになります。百年間にわたって、神様に導かれ、神様と共に歩みました。
 その間、失敗もありました。カナンの地を通り過ぎて、エジプトまで来たときに、エジプトの王ファラオを恐れて、妻のサラを自分の妹だと偽ったことがありました。また、神の約束を信じ切れずに、妻のサラが女奴隷ハガルをアブラハムに与えて、イシュマエルを得たこともそうでした。
 また、試練もありました。一緒に旅をしてきた甥ロトと別れたこと。それから、百歳になってようやく与えられた息子イサクを焼き尽くす献げ物としてささげなさいと、神様に命じられたことも大きな試練でした。また、最愛の妻サラが召されたこともつらいことでした。それでもアブラハムは、自分を召し出してくださった神様に従い、神様と共に歩み続けました。
 第三に、「先祖の列に加えられた」とあります。これは、神様の下に迎え入れられたことで、死んで「先祖の列に加えられる」という表現は、聖書の一つの希望を語っています。いくらこの地上で満ち足りても、死んだ先で独りぼっちであるならば、どうでしょうか。天の故郷では、先に召された信仰の先輩たちが私たちを迎えてくださるのです。新約聖書のヘブライ人への手紙一一章一三節にこう書いてあります。
 「この人たちは皆、信仰を抱いて死にました。約束されたものを手に入れませんでしたが、はるかにそれを見て喜びの声をあげ、自分たちが地上ではよそ者であり、仮住まいの者であることを公に言い表したのです」。
 それから、一六節に「ところが実際は、彼らは更にまさった故郷、すなわち天の故郷を熱望していたのです」とあります。ここで、彼らとは、神様に忠実に従って生きた人々のことを言っています。彼らは、地上ではよそ者であって、天の故郷を熱望していました。地上の生涯で終わりではないと、その先にある天の故郷を見詰めていました。それは、私たちを創造し、私たちを愛してくださった神様の下で永遠に過ごすことで、そこに希望を置いていたのです。アブラハムはその望み通り、神様が許されたときまで生きて、先祖の列に加えられたのです。
 このように、神様は、アブラハムという人を選び、その人生を導いて、大いに祝福されました。私たちの人生もそうでしょう。神様は、私たちにも目を留めてくださり、これまでの人生を恵みによって、導いてくださったのではないでしょうか。

 イサクとイシュマエル

 続いて、アブラハムが召されたとき、イサクとイシュマエルが一緒に父アブラハムを葬りました。 「息子イサクとイシュマエルは、マクペラの洞穴に彼を葬った。その洞穴はマムレの前の、ヘト人ツォハルの子エフロンの畑の中にあった」(九節)。
 サラの女奴隷ハガルの子であったイシュマエルは、十四歳のときにイサクが生まれたことで、アブラハムの家から追い出されていました。しかし、父の死の知らせを聞いて数十年ぶりにイサクと会って、彼と協力して父親の葬りを行ないます。普通であれば、自分を追い出したアブラハムとイサクに対するわだかまりがあったはずですが、それが消えていたようです。アブラハムは息子たちの手によって、妻サラが葬られたところに、一緒に葬られました。そして、「アブラハムが死んだ後、神は息子のイサクを祝福された」とあるように(一一節)、神様はアブラハムの跡取りとなったイサクを祝福されます。
 こうしてみると、アブラハムは「満ち足りて死に、先祖の列に加えられた」ことが分かります。アブラハムは七十五歳のときに、神様に召し出されて以来、百年間にわたり、神様に導かれ、神様に信頼し、神様と共に歩んだ人生でした。その間、失敗や試練もありましたが、神様の声に聞き従ってきました。このところに「満ち足りた人生」があると思います。