祖父の回想を読んで 伝えたかった「神意」

○ぶどうの枝第53号(2020年12月20日発行)に掲載(執筆者:HT)

 私の祖父は、一八七二(明治五)年三月、新潟県高田市で生まれました。日清、日露戦争の時代、軍人として艦船に乗っていました。退官後は、「日本移民協会」という会を設立し、大正中期より昭和初期まで従事しました。
 祖父は、キリスト教と出会い、中学三年のとき、同級生の親友六人とともに受洗していました。教会と女学校の創立を記念してとのことだったそうです。どちらの教会と学校なのか、定かではありません。男尊女卑の時代、当時としては大変なことだったのでしょう。

 日本移民協会の創立

 その後、海軍兵学校を終えて、日清戦争の真ん中に艦船上の人として出発。二十三年後、現役を退き、海軍生活を終えました。
 退官後は、尊敬する義兄とともに「日本移民協会」という会を創立しました。第一次世界大戦も終末期で、「人種平等、平和維持、世界の資源の公平」等を基軸とし、国の過ちを正し、差別のない世界の実現を願い、立ち上げた協会と記されていました。
 移民協会の働きが徐々に理解されるようになってきた頃に発生したのが「満州事変」です。祖父は言っています。争いは「愚」、人種の差別、不平等、自由を奪い、迫害を生じると。
 日清戦争は、十九世紀末、「下関条約」の成立により閉戦。そのほぼ十年後の二十世紀初期、日露戦争は、「ポーツマス条約」をもって閉戦を迎えることとなりました。その後、祖父は、四十五歳で「巡洋艦」上の人としての任務を終えて、二十三年間の現役を終了、海軍での生活から退きました。
 海軍現役中の任務は多種、多難でした。争いの現場においては、責任重大です。「連合艦隊」の一員として臨んでおり、「巡洋艦」での任務は複雑でした。回想に家族の消息をその都度書き残していたことが印象に残っています。でもなお思います。祖父にとっての本当の「海」は、日本移民協会の皆さんとともに、その活動に携わったことだったのではないかと。

 祖父の「感無量」

 祖父の「感無量」という文字をそこかしこに見ました。中でも「防護巡洋艦、秋津州(アキツシマ)」の着任を命ぜられたときや託された業務を無事終わったときなどの記述で特に感じました。今回、この回想の記録を読み終えて思うのは、この「感無量(感慨無量)」の言葉を通し、経験を「神意」として伝え、証しとして残しておきたかったのではないかと。
 回想の最後のページに記された言葉です。
 「武力解決は、一時の不得。不倶戴天(フグタイテン)の敵という時代。広く活眼を開き、包容の態度を練りもて。人類の幸福は、神意人道なり。聊か(いささか)の所見を記して子孫に教ゆることとす。一九三七(昭和十二)年十一月記す 加藤壮太郎」(武力での敵、味方は当てにならない。目を開いて、物事の道理や本質を見抜くべきです。人の幸せの全ては神様の意志のみにあります)。
 祖父に関しては、手元にある写真数枚と、三歳ぐらいのとき父とともに上京し会った記憶しかありませんでした。回想を読んで、私も祖父のまねをして「感無量」と言いたいと思います。