○ぶどうの枝第61号(2024年12月22日発行)に掲載(執筆者:TI)
礼拝奨励の務めをすることが決まってから、何を取り上げたらよいのかと考えていました。毎日の習慣として、できる限り新約と旧約を一章ずつ読むようにしていますが、たまたまある日の聖書箇所で、とても力強く響くパウロの言葉に出会いました。ここだと思いました。コリントの信徒の手紙一の一五章で、復活について述べたパウロの言葉です。
「そして、キリストが復活しなかったのなら、わたしたちの宣教は無駄であるし、あなたがたの信仰も無駄です。更に、わたしたちは神の偽証人とさえ見なされます。(中略)そして、キリストが復活しなかったのなら、あなたがたの信仰はむなしく、あなたがたは今もなお罪の中にあることになります。そうだとすると、キリストを信じて眠りについた人々も滅んでしまったわけです。この世の生活でキリストに望みをかけているだけだとすれば、わたしたちはすべての人の中で最も惨めな者です」(コリントの信徒の手紙一 一五章一四節~一九節)
私たちは、キリスト者として信仰において歩もうと努めています。そうした私たちの歩み自体は、キリストの復活により支えられていること、キリストの復活が私たちの信仰の土台であることを改めて確認したいと思います。
私は、愛知県名古屋市内で生まれ育ちました。高校三年の秋に教会の礼拝に初めて出席し、その一年後、一九七四年の秋、大学一年のとき、両親の反対を顧みず、東京都新宿区の大久保教会においてバプテスマを受けました。通っていた教会は、日本バプテスト連盟の教会でしたので、バプテスマ(浸礼)を受けました。
佐倉市への転居や年齢的なことを考え、佐倉教会に転入したのは、二〇〇八年三月、五十二歳のときでした。転入してきた頃、佐倉教会では、信仰生活五十年を迎えた方々を十一月の教会創立記念日にお祝いすることを始めました。信仰の諸先輩の皆さんのお祝いを見て、信仰生活五十年なんてまだまだ遠い先のことと考えていましたが、いつのまにか私自身が信仰生活五十年となり、感慨深いものがあります。
私の信仰は、若い頃に主イエス・キリストに出会い、主を見上げ、励まされて歩んできただけという素朴な信仰です。ただ、私は、今も主イエス・キリストが私たち一人一人と歩んでくださっていることを実感として強く感じます。特に、教会の礼拝の場では、主が正にここにいらっしゃると思うのです。もちろん、それはあくまで私のうちの思いであって、他の人にそう説明しても、中々実感として理解してもらうことは難しいかもしれません。
主イエス・キリストと私たちを結ぶもの
主イエスが救い主キリストであることは、もちろん聖書を読めば繰り返し言われていることです。しかし、聖書に書いてあることを過去に起こった一度限りの出来事として捉えるならば、確かにそういうことがありましたね、で終わってしまうかもしれません。
でもそうではないと思います。今から約二千年前にユダヤの地において主イエスが宣教されたことと、今を生きる私たちを主イエス・キリストへと結ぶものがあります。それが復活です。私も、主イエス・キリストが救い主であるとの信仰を持っている皆さんも、キリストの復活がなければ、本日の聖書の箇所でパウロが強く説いているように、私たちは空しい者となります。キリストの復活がなければ、私の信仰五十年の生活は何だったのか、すべて無駄であったということだと思います。もちろん、私も皆さんもこれまでの歩みが空しいものだったとは考えたくありません。キリストの復活は、私たちにとって一種の賭けとも言えるかもしれません。一方、信仰を持たない方から見れば、私たちは正に負ける賭けをしているのではないかと思うでしょう。
信仰において、私たちには、時に、迷い、疑い、不信に悩まされることがあるかもしれません。弱ったときには、目に見えない主イエス・キリストをどのように信じ、歩んでいけば良いのか迷うこともあるかもしれません。もし、キリストが復活しなかったのならば、私たちの信仰は空しく、この世の生活でキリストに望みを掛けている私たちは、全ての人の中で最も惨めな者です。しかし、実際、キリストは死者の中から復活し、眠りについた人たちの初穂となられました。
私が信仰を決心したのは、キリストが十字架につけられたとき、私も一人の惨めな人間としてキリストの十字架の下に立っており、キリストが私の身代わりとなってくださったことを実感として受け入れることができたからでした。でも、信仰生活を続けていくことは、一時の気持ちだけでは中々難しいところがあります。理想とは違い、実生活では、いろいろなことがあります。私にも人間的に欠けたところ、足りないところが多々ありますので、もちろん、何度も苦しい思いをしました。就職がうまくいかず、大学を一年留年せざるを得なかったとき、人生経験豊かな父の友人たちからは、人生とは何かをこんこんと説教されました。一言で言えば、「君は、キリスト教信仰を持っていても、世の中のことは何も分かっていないのだよ」ということでした。私には何も返すべき言葉がありませんでした。
これまで、決して信仰の確信に満ちた人生でも、順風満帆の人生でもありません。でも、私は、今生きています。思い、悩み、迷いながらも今立っているのは、キリストの恵みであると思いますし、復活されたキリストご自身が共に歩んでくださっているからだと思います。私たちの望みはキリストの復活にかかっていること、今日も、明日も、人生の最後の時を迎えるまで覚えていたいものです。
(本稿は本年八月二十五日の礼拝奨励の原稿をまとめ直したものです)